連歌師の顔
応其は交渉力だけではなく、連歌を詠み、批評する文化人でもあったのです。
連歌は、二人以上の人が、和歌の上の句と下の句をお互いに詠み合って、それをつづけていく形式の歌のことです。
当時では茶道と同じく武士や僧侶、文人のあいだで流行していたものでした。
薩摩の島津義久らが忠誠の証しとして大坂にやってきて秀吉に会ったとき、連歌の会が開催されています。このとき応其は、有名な連歌師の紹巴(じょうは)や昌叱(しょうしつ)、さらに細川幽斎らにまじって参加しています。
ところで、応其が高野山を救うために秀吉と会ったとき、紹巴や昌叱が同席していたことから、すでに連歌師をつうじて秀吉と知り合っていたということも考えられます。
いずれにしても、応其は連歌をつうじた人脈から、秀吉の天下統一に貢献していたのでしょう。
応其には、連歌の作法を書いた『無言抄』(むごんしょう)という著作があります。
そのなかで、
「仏門に入っては、その理知をわきまえ、儒道では、その徳行をあらわし、主君には忠を行ない、親と師には孝をつくせ」
と、人の生き方の教訓を書いています。
そして、連歌は「木食草衣」という修行にはならないが、
「わずかのあいだに妄念をはらうのには、連歌よりいいものはない」
と、連歌の世界に心のより所を求めていたのでした。
応其は、木食行と交渉力、そして連歌師という多面的な顔をもっていた人物であったのです。
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