自発的な信仰集団を形成
蓮如の時代から続く吉崎御坊の参道
蓮如は本願寺を再生するためには、親鸞の教えを分かりやすく民衆に伝えることであると考えました。そのために手紙の形をとった御文(御文章)を二百二十余通も書きつづっています。それは難しい解釈ではなく、親鸞の教えを蓮如なりにふまえた独特な創作でした。
「生あるものは必ず死に帰し、盛んなるものは、いずれ衰えるのが世のならいである。しかし人は、いたずらに生き、年月を送るばかりである。これを嘆いても、なお悲しいことなり」
といった無常観を切々と述べながら、
「それ故に、みなみな心を一つにして、阿弥陀仏を深く頼むことこそが後生を助かることなり」
と、だれにも分かりやすい文章を書いたのです。同時に、「南無阿弥陀仏」などの名号(みょうごう)を書いて与え、
「聖典は読み破れ、名号は掛け破れ」
とまで指導したのでした。
そして蓮如が布教の対象として着目したのが、「坊主(ぼうず)と年寄(としより)と長(おさ)」でした。
まず坊主は、親鸞の教義には精通して、門徒を集めている。お金などを出して書いてもらう仏光寺などの「名帳」や「絵系図」が、いかに親鸞や阿弥陀如来の本願からは異端であるかを説いて帰服させれば、その門徒ぐるみ帰依させることができる。
さらに職人や農民らの共同体の中で指導者の地位を占める年寄や、村長を教化すれば、村ぐるみ、職制ぐるみで本願寺に帰属させることができる、と考えたのです。
蓮如のオルガナイザーとしての才能は、まさにこの着眼点にありました。一人ひとりを個別に教化するより、集団の頂点をまず押さえる。それが集団の構成員に浸透して、信仰を確立する契機になる。そして、ひとたび信仰組織(これを「講(こう)」といいます)ができたら、そこで信心をより深め、講を強化し拡大するために、寄り合って何事も相談できるような態勢をつくったのです。
「四、五人の寄り合いをして相談せよ。必ず全員の意見や考え方をとことん出し合って、よくよく話し合え」
「愚かな者が三人に、智恵ある者が一人いて、皆で何事もよく話し合えば、面白きことがある」
上から信仰を下ろしながら、下部の意見も十分に汲み取るという「講」のあり方こそが、自発的な形をとった信仰集団として、歴史に類例のない本願寺王国を形成していくのです。蓮如はいいます。
「おれは門徒にもたれたり。ひとえに門徒に養われたり」
自分が組織した信仰集団が、逆に蓮如を支えているという感慨です。この姿勢は終生かわることがありませんでした。たとえば、法主が座る上段の間を取り払って、門徒と同じ座で語らい、寒いときは酒を温め、夏には冷やして門徒を歓待し、料理なども田舎の門徒だからといって粗雑につくることを諫めています。
また地方に行ったときは、門徒が食べる同じ粟(あわ)や稗(ひえ)を食べ、夜を徹して法談しました。これは親鸞のいう仏の前では、誰でもが平等で同朋であるという考えを実行したものでした。
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