本願寺再建を果たして
石山本願寺跡(現・大阪城公園/写真提供PIXTA)
応仁の乱にはじまった戦乱は、京都から地方にも拡大していきました。加賀では、守護大名の富樫政親(とがしまさちか)が弟の幸千代と骨肉の争いに敗れ、吉崎の本願寺門徒に加勢を求めました。これを蓮如は拒絶し、中立を保って教団を守ろうとしました。文明(ぶんめい)5年(1473)、蓮如は門徒が守るべき掟を発布しました。
「他宗への非難や誹謗をしてはならぬ。守護・地頭を軽んじてはならぬ」
などです。この掟に背いた者は、教団から追放するという厳しいものでした。その一方で、
「吉崎では、ただ往生極楽の道を説くもので、政治的な野望などはない。だが、このような争乱の世の中では、不測な事態も起きかねない。そのときには決然と立ち上がり、身命を惜しむことなく仏法を守らねばならない」
と説くことも忘れませんでした。現実には闘争を戒めていますが、仏法を守るためには命を賭けよというのです。この一見すると矛盾したような言動にこそ、蓮如のオルガナイザーとして、あるいは戦略家としての資質があると見られています。
しかし、講をとおした念仏信仰に支えられた門徒衆は、蓮如の指示を振り切って富樫政親に味方して、幸千代勢を倒してしまったのです。勢いあがる門徒衆は、「領主といえども、取るに足らない」と年貢を拒み、所領を拡大したのです。これに対して富樫政親は、逆に弾圧に転じたのです。
この戦雲を回避するには、吉崎を退去することだと判断した蓮如は、若狭(福井県)を経て河内(大阪府)へと去ったのでした。時に蓮如は61歳でした。しかし、加賀の門徒衆は、ついに富樫氏を倒して以来、90年余にわたって加賀国を支配したのでした。
蓮如の次の課題は、延暦寺衆徒によって打ち壊された本願寺の再建でした。五年近くかけられた壮大な伽藍が、京都の山科に建立されたのです。この山科の本願寺は各地の戦乱をよそに繁栄しました。
75歳になった蓮如は、五男の実如(じつにょ)に法主の座を譲って隠居します。しかし、隠居後も蓮如は活躍します。御文と名号を書き続け、しかも大坂御坊も創建したのです。これが、のちの石山本願寺で、その跡地には大坂城が建立されています。
明応(めいおう)8年(1499)、85歳の蓮如は、前年には末っ子の実従(じつじゅう)をもうけたものの、しのびよる老いには勝つことができませんでした。
「功なり名をとげて、身を退くは天の道なり」
開祖の親鸞とは、およそ異なった信仰生活を送った蓮如は、自分の人生に満足し、多くの子供や門徒に見守られながら、波瀾に満ちた生涯を閉じたのです。
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