人材の育成を目ざして
南都仏教の政治的な介入を防ぎ、律令制を建て直すために桓武天皇は、延暦13年(794)に都を京都に移しました。平安京です。比叡山での最澄の研鑽は、朝廷にも知られるところになりました。そして政治に干渉する南都仏教をおさえる存在として、最澄に注目したのが桓武天皇です。
同16年、最澄は内供奉(ないぐぶ)に加えられました。31歳でした。悩める青年僧を脱皮して、仏教界に登場したのでした。さらに4年後には、南都の六宗七大寺の高僧を比叡山に招いて、法華経を講義しています。桓武天皇のあつい信頼を勝ち得た最澄は、今や仏教界の第一人者になったのです。
琵琶湖から見る比叡山 (写真提供・比叡山延暦寺)
しかし、比叡山では苛酷な修行が行なわれていました。最澄が常に弟子たちに言い続けていた言葉があります。
「飢えを忘れ、山を楽しみ、寒さに忍んで、谷に住んでこそ、道心が求められる」
道心とは、仏教の真理を求める、ひたむきな心と姿勢のことです。
「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし」
と説きました。そして、道心のある者こそが「国の宝」であるとしたのです。
「国の宝とは何か。宝とは道心のことである。道心のある人こそが国の宝である。古人がいったように一寸の玉十枚が国の宝ではなく、一隅を照らす人が国の宝である」
最澄は比叡山で、この道心のある人材を育てることを目ざしたのです。その一方、最澄は天台の教義を求めるために、中国唐に留学することを桓武天皇に申し出ました。
しかし、最澄の才智を惜しむ天皇は長期にわたる留学を許さず、還学僧として渡航することを認めたのでした。還学僧というのは、随行した遣唐使が帰国するときには、一緒に帰らなければならないという条件がありました。
じつは、このとき別の船には空海が留学僧として渡航していたのですが、二人は相知らず、また相会うことなく中国に行って帰国しています。
最澄は中国にいること、わずか8カ月でしたが、天台山で道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)から天台宗の法門を受けることができ、天台宗門の第八祖と認められたのです。また、越州の龍興寺の順暁(じゅんぎょう)から、密教を学んでいますが、空海のように正式に授かったというものではなかったので、帰国してから空海から密教の修法を受けなければならなかったのです。
帰国後、最澄が開いた天台宗は、止観業(しかんごう)といわれる法華教学(顕教)と、遮那業(しゃなごう)と呼ばれる密教学の二本立てによって成立することになります。この天台宗の密教は台密(たいみつ)といわれ、空海の真言密教を表わす東密(とうみつ)とは区別されています。
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