文殊信仰による慈善救済
忍性は、叡尊のたびかさなる説得で、ついに出家に踏み切ります。二十四歳のときでした。
このとき、文殊菩薩像を額安寺近くの非人宿に安置し、供養して、それで宿願を果たしたものとして出家したといいます。
叡尊は、忍性ら多くの弟子たちや、近辺の名主や荘官などの支持をえて、非人や癩病者への慈善救済にあたりました。
たとえば、寛元2年(1244)には、各地の非人宿に安置した文殊菩薩像を請じて供養して、1000人に食糧を与えています。
また文永6年(1269)には、般若寺に移り住んだ叡尊は文殊菩薩の供養をして、6000余人を集め、そのうち3000余人に米や物品を与えています。
ここで非人とか癩病者ということばを使いましたが、これは当然、現在では使用すべきことばではありません。
叡尊や忍性が生きていた時代では、彼らは社会から蔑視されて、差別される存在でした。
それにもかかわらず叡尊や忍性は、積極的に救済したのです。そうした姿を書くにあたっては、その事実を隠すことはないと思って表記します。
叡尊のもとで出家した忍性は、文殊信仰の深さと、その信仰による非人や癩病者に対する救済で注目されていきます。
忍性は奈良にある非人宿に文殊菩薩像を安置して、彼らが救われることを念じたのです。非人宿の救済だけではなく、癩病者に対しても積極的に救いの手を差し伸べていました。
ことに般若寺や奈良坂の近くにある北山宿では、忍性は修行のかたわら慈善救済に励んでいました。
そこに日本最古といわれる救癩施設となる北山十八間戸を造って、癩病者を収容しています。
江戸時代に再建された北山十八間戸
しかも忍性は、歩くこともできない重病の患者が、生活の糧をえる物乞いができないと知ると、奈良坂から奈良市中にまで背負って行ったのです。そして夕方になると、また背負って戻るということをくり返したといいます。
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