鎌倉で活動を始める
忍性は、叡尊のもとに12年間いましたが、やがて叡尊の命をうけて関東への布教に旅立ちます。
建長4年(1252)のことで、忍性が36歳になっていました。
忍性は常陸(茨城県)の筑波山の麓近くにある三村寺を拠点にして布教活動をはじめます。
その間、叡尊や忍性の活躍を知った鎌倉幕府の前執権の北条時頼らが、叡尊を鎌倉に招いています。叡尊は、北条一族および御家人ら800余人に菩薩戒をさずけたのをはじめ、じつに数万人に結縁したといいます。
叡尊が鎌倉を去ると、忍性は鎌倉に入り、極楽寺を建てて開山になります。
鎌倉・極楽寺坂
この忍性の前に立ちふさがったのが、日蓮です。日蓮は『法華経』を奉じない教団を徹底的に非難しました。
さらに幕府の執権の北条時宗らに、邪法となる建長寺や極楽寺、大仏殿などへの帰依をやめなければ、外敵に日本は蹂躙されると警告します。
ことに建長寺の蘭渓道隆に対しては、
「念仏は無間地獄の業、禅は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説」
と非難し、忍性に対しては、
「長老忍性、すみやかに嘲哢(蔑むこと)の心を翻し、早く日蓮房に帰せしめたまえ」という挑戦状を送っています。
旱魃のために幕府は、忍性に降雨の祈祷をさせました。
このとき日蓮は、「7日の間に雨が降れば、私は忍性の弟子になる。もし降らなければ、法華経の信者になれ」と、挑発しています。
忍性は120人の僧を集めて、7日のうちに雨を降らそうと必死の修法を行ないます。しかし、4、5日たっても、一滴の雨も降りません。
さらに数100人の僧を加えますが、7日目になっても、雨を見ることはありませんでした。
祈祷の効験がなかったことから、日蓮は忍性を非難しました。
これに怒った忍性は、無間地獄の業とされた浄土宗の光明寺の良忠らとともに、日蓮を幕府に告訴します。
日蓮は竜ノ口での斬首はまぬがれたものの、佐渡に流されています。
バックナンバー「 日本仏教を形づくった僧侶たち」