衝撃を受けた老僧の教え
道元は比叡山で修行しますが、満足できるものがなかったようで、三井寺(園城寺)から栄西が開いた京都の建仁寺に移りながら修行しました。そして、しだいに中国に留学して、本来の仏教を学びたいというこころざしを抱くようになったのです。
ときあたかも後鳥羽上皇による朝廷政治の回復を目ざす承久の乱が起こり、朝廷方は鎌倉幕府によって無残なまでに敗北をきっしました。そのとき道元の縁戚にあたる土御門上皇らは流罪となり、異母兄弟などの親戚も処罰を受けています。こうした緊迫した状況の中で、道元の中国行きの決意は、いっそう固まっていったのです。
承久の乱から2年後、道元は24歳のときに中国に行きます。栄西の高弟である明全に同行したのですが、このとき父親の通親に仕えていた加藤景正という人が随行しています。景正は、中国で製陶の技術を学んで、瀬戸焼を日本に伝えています。
中国の地を踏んだ道元を待ち受けていたのは、はじめは失望と困惑でした。出会った高僧と称する僧侶らは、経文にある「漱口、刮口」といった口などをきれいにするという清潔な心がけがまったくなく、嗅ぐも耐えがたかったことです。潔癖な道元としては、中国仏教への期待が大きかっただけに落胆も強かったようです。
しかし、船が着いた寧波で出会った年老いた禅僧は、道元に禅の本質となるものを教えてくれました。この老僧は、阿育王山の禅院で食事をつかさどる典座という役職の人でした。
道元は、禅を学ぶことは、読経し、経典を読み、禅匠から直接に教えを受け、そして坐禅することであると思っていたのです。しかし老僧は、食事を含めて、自分を取りまく一切のものに、真剣に取り組むことが修行であると教えてくれたのです。
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