日本仏教を形づくった僧侶たち

「道元」―「只管(ひたすら)に坐禅せよ」と説いた不世出の禅僧―

作家 武田鏡村
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弟子が集まる一方で

道元は仏教の正統は坐禅にあり、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」することが、釈尊以来の正しい仏法の姿であるとしたのです。道元は、曹洞宗の開宗宣言ともいえる『普勧坐禅儀』で坐禅の心得や仕方を説き示し、厖大な『正法眼蔵』で禅の本質を解き明かしています。

帰国後しばらく建仁寺にいましたが、新しい仏法を説く道元に対して、比叡山の衆徒が道元の住居を破壊し、追放すると決議したことを聞き、法難を避けるために宇治深草の安養院に逃れています。

数年前も、浄土宗という新宗を立てた法然の墓が壊されることが起こっています。比叡山は、新しい仏法の興隆には、ことごとく反発していたのです。

永平寺全景

永平寺全景(写真提供・公益社団法人福井県観光協会)

しかし深草にいる道元のもとに、教えを求めて多くの弟子が集まってきました。興聖寺という僧堂が建立されると、三千余人の弟子が集まったといいます。のちに永平寺の住持となる懐弉や義演なども入門しています。

「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり」

道元は坐禅による指導を徹底し、坐禅は正師について学ぶことだと説いています。当時、僧堂での坐禅は珍しく、参禅する信徒が押し寄せたのでした。

ところが道元の禅が有名になると、比叡山の衆徒が再び圧迫を加えるようになったのです。しかも中国で禅を学んで帰国した円爾が、前関白の九条道家の庇護を受けて東福寺を開き、禅道場を設けました。道元の僧堂とは近い距離にあり、しかも円爾は比叡山とも親しかったので、道元はますます窮地に立ったのです。

道元も朝廷の高官を頼って僧堂を守ることもできる出身でしたが、世俗の介入を嫌う道元は僧堂を解散して、純粋な修行が行なえる土地を求めました。それが越前(福井県)の山間に建てられた永平寺です。

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