厳しい修行に徹して
雪深い永平寺での修行は、峻厳をきわめました。坐禅の仕方から食事、衣服まで、日常生活の細部にわたって厳しい規則が設けられたのです。
たとえば、高い声の読経、世俗や政治の話をしてはならない。あるいは、机の前で寝そべってはいけない。仏典以外の本を読んではいけない。食事を作ることも、食べることも修行ととらえ、一汁一菜の簡素な精進料理、服装も黒衣と袈裟、無地の単衣と襦袢だけで、厳冬といえども足袋ははかない。
道元は、こうした厳しい修行の中で、ただひたすら坐禅に励むことによって、自己を突きぬけて仏道にいたれと説き示したのです。
「参禅は身心脱落なり、只管(ひたすら)に打坐して初めて得べし」
『正法眼蔵』にある、この言葉は道元の根本思想となるものです。
道元の名声は高まり、時の鎌倉幕府の執権の北条時頼の要請を受けて鎌倉に行っています。しかし、権力の庇護を求めて、禅の布教を目ざしたわけではありません。時頼が一寺を建てて道元を住持に迎えようとしますが、それをかたくなに断わり、さらに越前の土地の寄進も受けつけず、半年で永平寺に戻っています。
北条時頼に面談したとき、「政権を天皇と朝廷に返還しなさい」と道元がいったという話が、室町初期になるといわれるようになりますが、その真相は不明です。しかし朝廷の高官の血筋をひく道元ならば、あるいは天皇政権の回復を求めていたのかもしれません。
永平寺(写真提供・公益社団法人福井県観光協会)
永平寺での過酷とも思える修行と弟子の教化に専念した道元は、しだいに健康をそこねていきます。道元は永平寺で、釈尊にならって最期の説法を行ないます。
「如来の正法が消滅しない間に、急ぎ修学して、怠けることなかれ。釈迦牟尼仏に等しく、少しも異なることなかれ」
この言葉は、道元の究極の目標でもあったのです。療養のために京都に戻った道元は、永平寺に帰ることなく、建長5年(1253)、日蓮が鎌倉で法華経を唱えた年に、54歳の求道の生涯を閉じたのです。
「渾身もとむるなく、活きながら黄泉(冥土)に陥つ」
これが最期の偈です。政治の波間に翻弄された母親の姿が、道元を孤高にして潔癖な求道生活に導き、そして大成させたといってもよいでしょう。
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