餓死者に心を痛めて
行基は生家を家原寺にしたように、各地に寺を建てています。その数は49にものぼっています。はじめは堂塔や伽藍が整った寺院ではなく、民衆が集まって仏法を聞くだけの粗末な道場であったようです。
堺市の大野寺や高倉寺、岸和田市の久米田寺などは、そうした道場からはじまったようです。ちなみに大野寺には、行基の信者と思われる人の名前が刻まれた土塔が残っています。
行基が開創した久米田寺の開山堂
「仏の智慧をえて、悟りを求めるには、発心して衆生の教化を行なわねばならない。そのためには飢え苦しむ人たちに救いの手を差しのべることだ」
「仏の功徳は、無知な者も貧しい者でも、いかなる人にもほどこされる」
行基は、こう菩薩道を説くとともに、自らがその実践の先頭に立ったのでした。仏教は大伽藍の中にあって、手の届かないものだと思っていた民衆は、その教えを身近なものとして受けとめたのです。
平城京の造営が行なわれると、各地からその費用や労力が徴発されました。そのため多くの民衆が駆り出されたのですが、その多くはひどい待遇や食糧不足のために逃亡し、飢え死んでいったのです。
野辺にうち捨てられた餓死者を見て、深く心を痛めた行基は、
「この者たちをねんごろに弔おう。それにしても、この悲惨な人々を救う手だてはないものか」
思案の末に、河川などの交通の要地ごとに「布施屋」を設けて、無償で食糧や宿泊を提供することにしたのです。飢えて、道端にうずくまっていた逃亡民にとって、布施屋はまさに地獄に出会った仏であったでしょう。
行基はまた、放置された死人の埋葬にもつとめ、遺体を集めて供養し、墓地も開いています。困苦にあえぐ民衆にとって行基は、生き仏のように思われたのでしょう。
「行基は菩薩の化身だ」
という声が自然に湧き起こってきたのです。
行基の行為に対して、人々はあまった金品や労力を提供し、布施屋をつくり、橋をかけ、池や井戸を掘る手助けをしました。『続日本紀』によると、
「都鄙に周遊して衆生を教化するに、道俗の化を慕いて追従する者、ややもすれば千人を数える。行基が来るを聞けば、巷にいる人なく、争い来たりて礼拝す」
とあります。千人の中には勝手に僧になった私度僧といわれる人や、逃亡民が多く、そこには土木技術を専門とする集団もいたようです。
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