困窮する民衆のために
ところが行基の活動を苦々しく思っていた朝廷は、行基と弟子たちを反社会的な集団として弾圧したのです。行基の実践的な布教を禁じた詔によると、
「近ごろの民衆は、勝手に髪をそって僧衣を着て、税の負担から逃れようとしている。本来の僧尼は寺院で教えを受け、仏道を伝えるべきなのに、『小僧行基とその弟子たち』は、民間でみだりに幸不幸を説いて民衆を妖惑し、生業を捨てさせている」
と、非難しています。困窮する民衆のために、本来なら国家が行なうべき仕事をしたのが、行基です。その行基が逆に反社会的な人物として弾劾されたのです。
行基は、こうした禁令にもかかわらず寺をつくり、人々が苦しむ難所や土地に橋や道路をつくり、溜池や堀を掘りつづけたのです。現在の大阪府では十ヵ所の池をつくっています。堺市に残る鶴田池や岸和田市の久米田池、伊丹市の昆陽池なども行基が行なったものです。
伊丹市の昆陽池
岸和田市の久米田池
こうした活動は、ますます民衆の支持をあつくして、それは各地の豪族たちも巻き込んでいきました。
聖武天皇の仏教信仰が深まるにつれて、ようやく朝廷にも行基を評価する気運が起こってきました。天平3年(731)、ついに朝廷は、
「行基法師に従う修行者で、法を守る者の男は61歳、女は55歳以上の者は、みな僧尼となることを許す」
との布告を出しました。行基の活動を禁止した詔から15年目のことでした。かつては「小僧」とけなした朝廷が、手のひらをかえしたように「法師」と呼び、その七年後には精進錬行の僧として「大徳」と持ち上げましたが、行基にとっては、そうした名称や僧位などは、なんら意に介するものではありません。
しかし、時代の変化と要求は、行基を在野におかなかったのです。行基の活動が公けに認められた前後から、政情の不安に加え、全国に天災と飢饉があいつぎます。悪病も蔓延しはじめて、世の中は騒然としてきました。
聖武天皇はしきりに神に祈り、仏事を行なって国家鎮護を願いますが、これといった効験はありません。朝廷を取り仕切っていた藤原武智麻呂ら四兄弟が疫病をわずらって死に、かわって橘諸兄が実権者となり、唐から帰国した玄昉や吉備真備を登用しました。
しかしこれが藤原氏の反発を招き、天平12年、藤原広嗣は九州の大宰府で挙兵して、玄昉や吉備真備を除こうとしたのです。
この反乱は、すぐに鎮圧されましたが、聖武天皇の動揺は激しく、平城京を放棄して山背国(京都府)相楽郡に恭仁京を造営することを決定しました。しかも翌年には、全国に国分寺の建立を命じたのです。
だが、造営にあたる民衆の徴発は思うにまかせず、そこで注目したのが土木技術を持つ行基の集団でした。恭仁京近くの架橋工事には、750人もの修行者が奉仕したといわれます。彼らには、工事完成後に得度が許され、出家することが約束されていました。
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