大仏建立の資金集めで
生家を寺にした堺市にある家原寺
聖武天皇が発願した大仏の鋳造で、銅から甚大な毒素が出たために恭仁京は放棄され、再び平城京に戻ります。
天平15年(743)、聖武天皇は国土安穏、徐災招福を祈念するため、奈良に巨大な大仏建立の詔を下しました。行基は、すでに76歳という高齢に達しています。
行基は、この大仏造営のために必要な費用を勧進するために起用されたのです。しかし行基に導かれて、菩薩道を実践していた弟子の中には、
「いたずらに民衆を疲弊させるだけの大仏建立は、行基さまの民衆を救う信念に反するのではないでしょうか」
「朝廷に我らの力が利用されるだけです。今までのような民衆の救済活動こそが、真の菩薩道ではありませんか。大仏造営に加わることは民衆への裏切りです」
などと行基に詰め寄る者もいましたが、行基はおだやかに、
「菩薩の道は、どの道をたどってもよい。我らが行なってきた仏道の唱導に、今ようやく国家が腰をあげたというだけのこと」
と、さりげなく答えるのでした。多くの弟子たちを率いて、大仏の造営費の勧誘にあたった行基は、その功績を評価されて、朝廷から最高の僧位となる大僧正に任じられます。
しかし弟子の中には、あからさまに、
「行基は民衆を裏切り、僧位ほしさに国家に身を売った者だ」
と批判して去る者もいました。
また鋤田寺の智光という学問僧などは、
「わしは長年、もろもろの経典を読み、その注釈もほどこしてきた。わしこそが才智が広く深い僧である。行基ごときは、わずかな功徳をほどこしているにすぎない。それなのに、なぜ朝廷はわしをうち捨てて、行基を誉めて任用するのか」
と、激しく嫉妬し、怒りのあまり山谷に隠れたといいます。
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