日本仏教を形づくった僧侶たち

「一遍智真」 ─絶対他力の本願に身をゆだねた念仏聖─

作家 武田鏡村
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民衆の支持を集めて

神奈川県藤沢市にある時宗総本山・清浄光寺(遊行寺)の中雀門

一遍の生死を超えた浄土を求める旅は、さらに続きます。京都から木曾路を通って善光寺に参詣したあと、二つの出来事が起こりました。それは一遍の念仏に触れた民衆の願望とエネルギーが爆発した信仰的な出来事といえるものです。

信州の佐久郡伴野には、承久の乱で流罪になっていた叔父の通末[みちすえ]の墓がありました。一遍は叔父の霊を弔うために念仏を修したところ、紫雲がたなびいたといいます。その後も、花びらが降ってくるという奇瑞[きずい]現象が生じたのです。

そんなことが評判になって、一遍は熱狂的とも思える民衆の支持を集めました。しかし一遍は、

「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え、一遍は知らず」

と、そんな奇瑞も冷ややかに突き放すだけです。それでも一遍の教えを求めて人々が殺到しました。小田切の里では念仏札を受けると念仏を唱えて、やがて恍惚[こうこつ]とした状態になって踊り出したのです。

『一遍聖絵』では、一遍は縁先に立って食器の鉢を打ち鳴らしています。庭に十三人ほどの僧と俗人が混じって踊り、数人の男女がこれを見ています。踊りの輪の中央には、僧と尼が手足を跳ね、首を振って自由奔放に踊り回っています。彼らは体内に鬱積しているものを発散し、興奮と忘我の末に一種の生死を超えたエクスタシー状態を体現しているかのようです。

こうした踊り念仏は、たちまち各地に広まり、民衆の不安や鬱屈したエネルギーを吸収して爆発させたのです。踊り念仏は、生への歓喜を求めるのではなく、死の影に彩られています。それゆえに踊りは狂おしく、恍惚の内に死を垣間見るという、あくまで魂の燃焼と浄土との一体を求めるものでした。

「ともはねよ かくてもおどれ こころごま みだの みのりと きくぞうれしき」

一遍は踊り回る人たちをみて、こう詠っています。一切を忘れ、一切を捨てて念仏を唱えながら踊る姿に、弥陀如来に身をゆだねる喜びを重ねているようです。

民衆の踊り念仏に支えられた一遍の遊行は続きます。同行者も増えてきました。信州を発った一行は、白河の関を越えて奥州に入ります。江刺に流された祖父の通信の墓を訪ねると、鎌倉を目ざします。鎌倉で布教するためです。故郷を出立して、すでに8年、一遍は44歳になっていました。

一遍が開いた鉄輪温泉

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