捨聖に徹した生涯
弘安五年(1282)春、一遍一行は片瀬から鎌倉に入ろうとしました。鎌倉は前年の二度目の蒙古来襲の余波で、混乱をきわめていました。一遍らが関所をこえようとすると、一人の武士が押しとどめました。
「今日は執権殿(北条時宗)が山内に入られるから、ここより入るべからず」
一遍が制止を聞かずに、なおも進もうとすると、武士は、
「集団を率いて鎌倉に入ろうとするのは、名声を得るためであろう。制止するのは理由があってのことだ。何故、それを無視して乱入するや」
と語気を強めた。一遍は、
「念仏勧進を我が命としている。そのように嘲られては、どこに行ったらよいのか。かくなるうえは、ここで死ぬべし」
と強気に出たが、武士は、
「鎌倉以外であればよかろう」
という。生死を超えた境地を歩む一遍は、どこの土地であろうと生死を超えることを説く念仏勧進を妨げる所はない、と信じていたのです。しかし、それまで鎌倉は黒衣をまとって群れをなす集団を無頼の輩、常識を破る徒として入ることを拒絶してきていたのです。
一遍は数ヵ月間、片瀬に留まって踊り念仏を行なっています。後年になって弟子たちが、近くの藤沢に清浄光院(遊行寺)を建てています。また神奈川の原当麻には、一遍の後を継いで時宗の二世となる真教によって、無量光寺が建立されています。
そして数ヵ月後には、東海道を上りながら遊行を再開したのです。伊豆の三島神社に詣でたとき、紫雲が立つのを見た信徒の7、8人が忘我のあまり自殺したといいます。
こうした遊行の間、従う一行の中に病死する者が次々と出てきました。旅の疲れと疫病にかかって落命したのです。超一はじめ多くの僧尼が倒れています。
一遍は京都から山陰へ、そして中国山脈を横断して美作(岡山)から播磨(兵庫)を経て、
大阪の四天王寺にいたっています。また播磨では聖として念仏に一生をかけた教信沙弥の遺跡を訪れ、山陽道から故郷の伊予に入り、讃岐(香川)から阿波(徳島)を経て淡路島に渡っています。そのころから一遍の体は病にむしばまれていったようです。
死期の近いことを知った一遍は、兵庫和田の観音堂に入り、所持していた経典の一部を書写山に納め、残りをすべて焼き払ったといいます。正応二年(1289)8月、15年に及ぶ遊行の末に、51歳の生涯を閉じています。一遍の死を悲しんで、7人の信徒が海に身を投じたといいます。
「死後の葬礼を営むな。死骸は野に捨てて獣に施すべし。ただし、在家の人が結縁の志があれば、あえて口出しするにおよばず」
これが一遍の遺言です。あくまで捨聖に徹した一遍の信念が、この遺言に見事に込められているようです。しかも遊行で結縁を求めてやまなかった在家者へのやさしい心根が、そこには貫かれていたのです。
念仏賦算をした京都・四条の染殿地蔵院
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