目からウロコの仕事力

トルコの100年後の恩返し ―「報恩」の心

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

樫野崎灯台 と トルコ初代大統領・ムスタファ ケマル アタテュルク騎馬像 (画像・AdobeStock)

日本とトルコの知られざる絆

トルコを訪れましたが、極めて親日的な国であることを肌で感じました。

両国の交流は古く、2014年が国交樹立90周年でした。経済面でも日本企業が吊り橋道路や海底トンネル、発電所の建設などでトルコ社会のインフラ整備に大きく貢献しています。

友好関係が続いている背景には、二つの大きな出来事があります。一つは明治時代の1890年、和歌山県串本町沖で台風によって遭難したトルコ軍艦の乗員を地元住民が救助し、本国まで送り届けた「エルトゥールル号遭難事件」。二つ目は1985年のイラン・イラク戦争勃発によって、イランのテヘラン空港に取り残された在留日本人をトルコ政府が自国航空機で成田まで搬送した出来事です。

トルコでは、この二つの出来事が小学校の教科書に載っているくらい周知のことですが、日本人は知らない方が多いのでご紹介します。

1890年、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号がイスタンブールの港を出発し、約一年かけて横浜港に到着しました。一行は、親善訪日使節団656人で、日本との友好関係を深める目的で派遣された人たちです。3カ月の滞在中、明治天皇への拝謁をはじめ、東京各地を訪ね、日本の文化を吸収して帰国の途につきました。

ところが横浜港を出航後、夜になって台風に遭い、串本町沖で岩礁に衝突し沈没。全乗員が真っ暗な荒海に投げ出されてしまったのです。それを知った地元住民は総出で懸命な救助活動を行ない、漂流していた69人を救出食料や衣類を与えるなど、手厚く介抱しました。救助された人たちは串本町民の献身的な働きとやさしさに感激したといいます。

その後、日本政府は体力を回復した生存者を二隻の軍艦に乗せ、イスタンブールまで送り届けました。出迎えた人たちが搬送に当たった日本人を大歓迎したのはいうまでもありません。生存者たちも日本で受けた献身的な支援の様子を各地に伝えました。

犠牲者を[いた]んだ民間人の山田寅次郎は、日本各地を一年以上回って義援金を呼びかけ、1892年にその浄財を犠牲者の遺族に届けました。そのときトルコに魅せられた山田は、そのまま約20年間もトルコに住みつき、日本との貿易や文化の懸け橋役を務めたのです。

イスタンブールの「山田寅次郎広場」には、犠牲者慰霊の桜が500本植えられました。4月の満開時には犠牲者の慰霊祭が営まれるなど、山田の志は今もトルコの人びとの心に生き続けています。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る