宗門内での対立
豊臣秀吉を祀る豊国神社(写真は国宝唐門)。方広寺大仏殿跡に建つ
日奥は、永禄8年(1565)、京都の豪商である辻藤兵衛の子に生まれています。
京都では日蓮宗が多くの商人によって信仰されていました。京都の商人たちは、来世の成仏を説く浄土真宗よりは、現世で福徳にあずかるとする日蓮宗を篤く信仰していたのです。
辻家の親戚が妙覚寺の大檀那であったことから、日奥は10歳のときに妙覚寺の日典のもとで出家しています。
師の日典は、日奥の才能と修行ぶりを高く評価して、文禄元年、28歳の若さながらも妙覚寺の住職に推したのです。大仏殿での千僧供の問題が生じる3年前のことでした。
長老たちの意見が出席に固まったとの報せを受けた日奥は、とるものもとりあえず本圀寺に駆けつけて、その決定を非難したのです。
「日蓮聖人以来の掟を一度でも破って、他宗の信者に経を読み、仏法を謗る者どもの布施を受ければ、わが宗義は永久に崩れてしまいますぞ。たとえ、どのような法難に遭おうとも、われらの信心は守るべきです」
と、強硬に不参加を主張したのです。この信念を支えたものは、
「日本は三界にわたって仏の国であり、その教主は釈尊であって、決して世俗の政治権力者ではない」
それゆえに太閤秀吉の命令といえども従うことはない、というものでした。
日奥の主張は、日蓮宗の宗義としては正論でしたが、再度開かれた会議では、日奥を除いて全員が出席することを認めたのでした。
あくまでも納得できない日奥は、公然と出席反対を声高に説きますが、千僧供が行なわれる日に、抗議の姿勢を示すために妙覚寺を退出したのです。
そればかりか丹波(京都府と兵庫県)一帯を回りながら、
「不受不施こそが、日蓮聖人の教えの正統を守るものだ」
と布教したのです。
その間、その地の大名たちからは、
「日奥は、太閤さまの命令にそむく曲者だ」
という声に追われ続けたのです。しかし、日奥のこうした不屈の姿勢は、しだいに日蓮宗の僧侶や信者の間に多くの共鳴者を生むようになっていったのでした。
ところが、秀吉に妥協して屈した僧侶にとっては、日奥の主張と存在はうとましいものとなっていったのです。
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