家康の怒りをかう
秀吉が、わが子の秀頼を五大老に、「くれぐれも頼む」と言い残して亡くなったのち、日奥は五大老の一人である徳川家康に訴えられたのです。
家康は、慶長4年(1599)に日奥と、訴えた僧侶たちを大坂城に呼び寄せて、折衷案を出してさとしました。
「一度でよいから大仏殿の千僧供に出席せよ。他宗の僧との同席を拒むなら、別室にいてもよい。食事を受けるのがいやなら、箸をとるまねでよい。ほかに望むことがあれば、宗義を曲げないように書き付けを出してもよい」
しかし日奥は、自説を曲げようとはしません。そこで家康は、出席したほかの僧侶と対論させましたが、日奧は不受不施の主張を貫きとおしたのです。
頑固な日奥に業をにやした家康は、ついに怒って、
「このように頑迷な教義をいう者は、天下に大乱を起こす者だ。ただちに流罪にすべし」
と言い渡し、その場で日奥が掛けていた袈裟をはぎとって、朝鮮半島の近くにある対馬(長崎県)に流したのでした。
日奥にとって、この流罪は覚悟していたものでした。しかも、それは自分の考え方の正しさの証明でもあったのでした。
対馬にいること13年、日奥の意気は少しも衰えず、
「諸寺の悪侶どもや家康は、われにとって第一の善知識ぞ。彼らのおかげで法華経の奥義を体得することができた」
といったのです。
これは日蓮が佐渡ヶ島に流されたとき、流罪を画策した他宗の僧や鎌倉幕府を、
「彼らは日蓮が仏にならんがための善知識である。彼らがいなければ、日蓮は法華経の行者にはなれなかった」
といったことを踏まえたものであったのです。
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