亡骸を流罪にされる
慶長17年(1612)、日奥は京都所司代の板倉勝重の斡旋で、流罪を解かれて京都に帰ってきました。
すでに関ヶ原の戦いも終わり、大坂城には豊臣秀頼はいるものの、徳川家康が江戸に幕府を開いて、天下の実権を掌握していました。
時代は目まぐるしく変わっていましたが、日奥の厳格な不受不施の信仰は不変でした。それどころか、法難にくじけることなく、再び勢力を広げようと活動したのです。
しだいに日奥に共鳴する僧侶が現われてきたのです。池上本門寺の日樹や、中山法華経寺の日賢らをはじめ、関東の有力な僧侶たちも、
「不受不施こそが、法華経行者の真の姿である。宗祖日蓮聖人の求められた不屈の生き方である」
と、日奥に同調したため、しだいに大きな影響力を持つようになっていったのです。
本門寺の日樹は、二代将軍秀忠の夫人の江の葬礼の供養を「不受不施」の立場から辞退したのです。
ところが身延山の久遠寺がこれを受けたので日樹が非難すると、同調する者が続出し、関東ではさらに不受不施の教義が流行したのです。
これに対して久遠寺の日暹は、
「日樹が説く不受不施の教義は、いたずらに宗門の足もとをすくう言動だ」
と大いに怒り、これを邪説として幕府に訴え出たのです。
寛永7年(1630)、各地でキリシタンの処刑が行なわれていた最中、大老の酒井忠世は、両者を江戸城に呼んで「受・不受」の対論をさせました。
結論は、日奥の場合と同じでした。幕府の体制固めに主眼をおく幕閣は、その命令に服さない教義を容認するはずがありません。
幕府は、日樹を信濃(長野県)の伊奈に流罪とし、その指導者として大きな影響力を持つ日奥を再び対馬に流罪とし、同時に以後、不受不施を唱えることを一切禁じたのです。
しかし、日奥は処罰が決まる20日前に、66歳の波瀾に満ちた生涯を妙覚寺で終えていました。
ところが不受不施の教義をキリシタン同様に邪宗門と見なす幕府は、すでに亡くなっていた日奥を、死後の流刑として、死骸を対馬に運ばせて晒したのでした。
大阪城
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