戒律の復興と社会事業
興正菩薩叡尊上人像(西大寺蔵)
弘法大師の教えは、
「仏道は戒律なくしては、達成することはできない。戒律を犯すものは、仏弟子にあらず、わが弟子にあらず」
というものです。叡尊は、
「まず仏教で禁じられていることを示す戒律をしっかりと守ることであり、それが末世の衆生の利益にかなうことになる」
と深く悟ったのです。
嘉禎元年(1235)、35歳のときに奈良の西大寺に移ると、仏典による戒律をますます学び、
「不浄な財を求めるものは、出家たる資格がない。戒律を守ることができないものは、仏弟子の資格がない」
という信念を確立したのです。そして、翌年には、同志となる僧たちとともに東大寺で「自誓授戒」を行なったのです。
それまで授戒というと、10人の戒師の前で、戒律を守ることを誓っていました。しかし、そうした戒師が、堕落していたならば、本当に授戒したことにはなりません。
そこで叡尊は、興福寺の覚盛から教えられた「自誓授戒」の道を選んだのです。「自誓授戒」というのは、仏と菩薩の前で誓うことです。つまり、人間の戒師ではなく、仏と菩薩から直接に授戒するというものです。
こちらのほうが、自分で仏と菩薩に誓ったのですから、自分自身に課せられた責任は、きわめて重大なものになります。もし戒律を破れば、仏弟子ではなくなってしまうからです。
こうして戒律を復活させる叡尊の活動がはじまったのでした。それは衆生に対して身命を投げ打って貢献するという、社会的弱者の救済活動と軌を一にするものでした。
ところで叡尊が入った西大寺は、称徳天皇が、金銅の四天王像の造立を発願したのがはじまりで、興福寺とならぶ大伽藍をもっていましたが、しだいに荒廃していきます。叡尊が入ったときは、見る影もないほどでした。叡尊は、
「身命をおしまずに西大寺を再興して、戒律を守る正法を興隆する」
と決意して、復興に尽力します。西大寺を堅固に戒律を守る寺院として、それまで廃れていた仏教を本来の姿に戻そうとしたのです。
叡尊は、寺院に閉じこもることはなく、社会活動にも邁進しています。仁治3年(1242)には、奈良の東西の獄舎に収監されている囚人に沐浴をさせ、食事をあたえています。こうした行為は、のちに弟子になる忍性に受けつがれることになります。
また奈良時代に社会事業に献身した行基にならって、橋や池、道路の構築などを行ない、行基の生家となる家原寺の住職にもなっています。
叡尊は、さらに徹底した社会的弱者への救済を行ないます。奈良で身分的に最下層とされている人々に対して、七ヵ所に宿所をもうけて救済します。その宿所には、文殊菩薩の図像をかかげて、文殊供養を行なっています。
文殊菩薩は、貧窮者や孤独な者、苦悩を背負う衆生となって、行者の前に現われるといわれていました。叡尊は、この教えにしたがって最下層とされる人たちを生身の文殊菩薩と見たてて、限りない施しを行ない、それをもって文殊菩薩を供養することを発願したのです。