各地で殺生を禁じる
叡尊は一方的に救済を行なったのではありません。救済される対象には、「殺生戒」という戒律を実行することを求めています。
殺生というのは、生きものを殺すことで、これは仏教では僧侶や俗人の区別なく厳しく禁止しているものです。殺生禁断といわれています。
殺生禁断は、鳥やケモノ、魚などを殺して食べることを禁じることで、それを厳守することが仏教徒としての戒律としたのです。
叡尊は、たんに経文の功徳にさずかろうとする人に対しては、その領地での殺生を禁断することを誓わせています。
叡尊は、忍性ら多くの弟子たちや、近辺の名主や荘官などの支持を得て、最下層の人々や病人に対して慈善救済にあたります。たとえば、衰微していた奈良の般若寺を再興して、文殊菩薩像を安置し、三千余人に米や物品を与えています。
このように叡尊は90歳で、その天命をまっとうするまでに、九万七千余人に戒律をさずけ、四万一千の修法を行ない、全国の千三百余カ所に殺生禁断の地をもうけています。
ところで叡尊と同時代を生きた親鸞は、生きものを殺して、それを食べたとしても、なんら仏法にそむかないと説いています。親鸞は叡尊とは、まったく異なった教えを説いていたのですが、親鸞の教えの根底には、戒律を守ることのできない人々を救おうとする熱い思いがあったのです。
親鸞が説いた「悪人こそが救われる」という悪人は、殺生をして生きる人たちを指すものですので、叡尊とは完全に対立する教えです。しかし、親鸞のいう悪人たちは、鎌倉幕府からも異端者と見られ、関東で布教していた親鸞は、京都に戻らざるをえなくなったのでした。
西大寺本堂(奈良市)