モンゴル軍の退散を祈祷
石清水八幡宮(京都市)
モンゴル(蒙古・元国)軍が日本に襲来すると予告したとき、叡尊は伊勢神宮に参宮しています。その動機は、モンゴル軍の襲来を退散祈祷するためです。伊勢神宮では、神仏の分離が厳しく行なわれており、僧侶の参宮は拒まれてきましたが、叡尊の熱意によって許されました。
叡尊の伊勢神宮への参宮は、3度にもおよびましたが、いずれもモンゴル軍の退散を祈祷するものです。その祈祷の効験か、モンゴル軍は豪風雨にあって退散しています。これが文永の役で、1度目の元寇といわれるものです。
さらに叡尊は、2度目のモンゴル軍の襲来が確実になったとき、大坂の四天王寺で祈祷を行なっています。叡尊は聖徳太子を尊崇しつづけていたために、太子が建造した四天王寺に関心を寄せていました。のちには朝廷と亀山上皇の命令で四天王寺の別当職という、最高の責任者におされています。
さらに武神を祀る石清水八幡宮において、7日間も昼夜を問わない不断の祈祷せよ、という命令が朝廷から出されます。叡尊の法力で、モンゴル軍を退散させようというのです。
そこで叡尊は、法弟三百余人を引き連れて、石清水八幡宮に参り、僧侶五百六十余人とともに宝前で勤行しています。
叡尊は説戒のうえで、八幡大菩薩に日本の国難を訴え、
「東風をもって兵船を本国に吹き送り、来人をそこなわずして、その乗るところの船を焼き失わせたまえ」
と祈願しました。「来人」とは、日本にやってくるモンゴル軍の将兵たちのことですが、彼らの命をそこなうことなく船を焼き失わせよというのは、いかにも殺生の禁断を宗旨とする叡尊らしい祈願といえるでしょう。
祈願をおえた叡尊のもとに知らされたのは、モンゴル軍の兵船が大風のために破損して、ほうほうのていで引き上げたというものでした。
こうした叡尊の祈祷の効験が、世の中に広く知れわたると、救世主として仰がれるようになり、叡尊の存在は圧倒的な賛辞につつまれたのです。
そうした名声におごることなく叡尊は、宇治川にかかる橋を修造したり、魚を獲る漁具を川に埋めて、壮大な十三重の石塔婆を建てて、殺生禁断の宗旨を伝えています。またモンゴル軍が来襲した弘安の役でも、石清水八幡宮で撃退の祈祷をして効験を表わしています。
正応3年(1290)、叡尊は西大寺で亡くなり、その荼毘所には巨大な「叡尊五輪塔」が建てられて現在に伝えられています。