日本仏教を形づくった僧侶たち

「叡尊」―厳格な戒律を重んじながら貧民救済に命をかけた僧侶―

作家 武田鏡村
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

モンゴル軍の退散を祈祷

石清水八幡宮

石清水八幡宮(京都市)

モンゴル(蒙古[もうこ][げん]国)軍が日本に襲来すると予告したとき、叡尊は伊勢神宮に参宮しています。その動機は、モンゴル軍の襲来を退散祈祷するためです。伊勢神宮では、神仏の分離が厳しく行なわれており、僧侶の参宮は拒まれてきましたが、叡尊の熱意によって許されました。

叡尊の伊勢神宮への参宮は、3度にもおよびましたが、いずれもモンゴル軍の退散を祈祷するものです。その祈祷の効験か、モンゴル軍は豪風雨にあって退散しています。これが文永[ぶんえい][えき]で、1度目の元寇[げんこう]といわれるものです。

さらに叡尊は、2度目のモンゴル軍の襲来が確実になったとき、大坂の四天王寺[してんのうじ]で祈祷を行なっています。叡尊は聖徳太子を尊崇しつづけていたために、太子が建造した四天王寺に関心を寄せていました。のちには朝廷と亀山[かめやま]上皇の命令で四天王寺の別当職[べっとうしょく]という、最高の責任者におされています。

さらに武神を[まつ]石清水八幡宮[いわしみずはちまんぐう]において、7日間も昼夜を問わない不断の祈祷せよ、という命令が朝廷から出されます。叡尊の法力で、モンゴル軍を退散させようというのです。

そこで叡尊は、法弟三百余人を引き連れて、石清水八幡宮に参り、僧侶五百六十余人とともに宝前で勤行しています。

叡尊は説戒のうえで、八幡大菩薩に日本の国難を訴え、

「東風をもって兵船を本国に吹き送り、来人[らいじん]をそこなわずして、その乗るところの船を焼き失わせたまえ」

と祈願しました。「来人」とは、日本にやってくるモンゴル軍の将兵たちのことですが、彼らの命をそこなうことなく船を焼き失わせよというのは、いかにも殺生の禁断を宗旨[しゅうし]とする叡尊らしい祈願といえるでしょう。

祈願をおえた叡尊のもとに知らされたのは、モンゴル軍の兵船が大風のために破損して、ほうほうのていで引き上げたというものでした。

こうした叡尊の祈祷の効験が、世の中に広く知れわたると、救世主として仰がれるようになり、叡尊の存在は圧倒的な賛辞につつまれたのです。

そうした名声におごることなく叡尊は、宇治川にかかる橋を修造したり、魚を獲る漁具を川に埋めて、壮大な十三重の石塔婆[せきとうば]を建てて、殺生禁断の宗旨を伝えています。またモンゴル軍が来襲した弘安[こうあん]の役でも、石清水八幡宮で撃退の祈祷をして効験を表わしています。

正応[しょうおう]3年(1290)、叡尊は西大寺で亡くなり、その荼毘所[だびしょ]には巨大な「叡尊五輪塔」が建てられて現在に伝えられています。

作家
武田 鏡村(たけだ きょうそん)
1947年、新潟県生まれ。作家、日本歴史宗教研究所所長。主な著書に『良寛 悟りの道』(国書刊行会)『一休』(新人物往来社)『「禅」の問答集』(河出書房新社)『名禅百話』(以上、PHP文庫)『親鸞 100話』(立風書房)『親鸞』(三一書房)『般若心経』(日本文芸社)『清々しい日本人』『図解 五輪書』『決定版 親鸞』(以上、東洋経済新報社)ほか多数。
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る