修行を重ねつつ著作も
出家した正三は、各地の名僧を訪ね、関西にある寺社を巡拝します。そして、奈良の法隆寺で真言律宗を学ぶと、故郷の西三河に戻ります。
正三は、紅葉の名所として知られる足助の香嵐渓の近くにある曹洞宗の古刹である香積寺の禅僧と交わり、さらに千鳥寺で血を吐くような厳しい修行を自らに課しています。
そして46歳のときには、則定の近くに自費で僧堂を建てます。これが石平山恩真寺で、そこには各地から僧が集まり、遠近の人々が参集して聞法したといいます。正三は、石平和尚とか石平道人といわれて尊敬されています。
恩真寺の裏手には正三の墓が建っています。正三が開いた心月院には、正三の坐像が安置されています。小さな坐像ながら、凛とした厳しい正三の風貌をうかがうことができます。また二井寺には、正三が寄進した鐘が現存しています。
50歳のとき父の重次が亡くなりますが、弟の重成が大坂の代官に任じられると、香積寺の住持と一緒に訪ねています。
そこで、ある庄屋が田畑を隠していたことが露見して、一族が死罪になることを知りました。正三は、
「男は仕方ないにしても、女人を死罪にすることは権現様(家康)にはなかったことである」
といって多くの女性の命を救ったといいます。正三は、本尊の観音像の左右に家康と秀忠の位牌を安置していたといいますから、主君の報恩に感謝する武士の心が流れていたのです。
正三は各地を巡錫するかたわら、先にふれた士農工商がそれぞれの職務に精勤することが大切な生き方であるとする『万民徳用』や、女性でも念仏でも救われるとする『二人比丘尼』や『念仏草紙』などを著わしています。
千鳥寺
バックナンバー「 日本仏教を形づくった僧侶たち」