どう生きるかを説いた正三
心月院
寛永14年(1637)、太平の世を打ち破る島原の乱が起こります。これは圧政にあえぐ島原と天草の住民が、島原の原城に立て籠って幕府軍と戦ったのですが、3万人という死者を出して乱は制圧されています。このとき弟の重成と実子の重辰は、総大将になった松平信綱に従って参戦しています。
島原の乱から4年後、重成は天草の初代の代官として赴任します。乱後の天草は住民が減少し、耕地も疲弊していました。重成には、その復興が託されたのです。64歳の正三は、弟を助けるために天草に赴いています。
島原と同じく天草もキリスト教が根づいて、各地に教会が建てられていました。乱後、教会はすべて破壊されていましたが、正三は住民の心を立て直すには寺院と神社を復活させることだと献策して、三十数ヵ所の寺社を再興させています。さらに『破吉利支丹』という書を著わして、キリスト教を批判して、仏教の正しさを説いています。この書は天草の各寺院に納められたといいます。
ところで、天草の石高は四万石とされていましたが、実際はその半分しかないことを知った重成は、しばしば年貢の半減を幕府に献策しますが、受け入れてもらえません。
そこで重成は江戸に戻ったとき、切腹して半減を訴えたのです。66歳でした。その死は幕府への批判と見られたのですが、一命をかけたために幕府は訴えを認めざるをえなくなったのです。
重成の後任には、正三の実子の重辰がついて、同じように善政を行ないます。いわゆる、お役人的な行政官ではなく、血のかよった治世を行なったのです。現在でも天草には、重成・正三・重辰の3人を祀る鈴木神社が残っており、その遺徳がしたわれつづけています。
正三は、
「己を忘れて、己を忘れざれ」
といっています。自分に執着することなく、無私になり、しかも自分を大切にすることであると説いています。それには、
「死に習う」
ということです。「死に習う」というのは、死に方を学ぶことではありません。死ということをたえず心の底において、積極果敢に生きることです。そこから人生や職務をたくましく前向きに取り組む姿勢が生まれてくるのです。
明暦元年(1655)、77歳の正三は、江戸駿河台の鈴木屋敷で亡くなります。正三が臨終のとき、弟子が、
「死とはなんですか」
と問うと、正三は、
「これまで身をもって説いてきたではないか」
といい、
「正三は死ぬとなり」
といって亡くなっています。生死をかけた戦場をくぐりぬけた正三は、つねに生と死を根底においた生き方をしていたのです。
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