日本仏教を形づくった僧侶たち

「鑑真」―日本仏教の確立に貢献した中国僧―

作家 武田鏡村
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鑑真一行を襲う苦難

栄叡と普照は、頭を低くして鑑真に訴えました。

「いま日本には仏法があるといえども、仏法の戒律を伝える者はだれもおりません。願わくば、和上[わじょう](高徳の僧のこと)のお弟子に、われらとともに日本に渡るよう、お口ぞえください」

二人の必死な訴えを聞いていた鑑真は、おもむろにいいました。

「日本は仏縁の深い国である。だれか日本に渡って、戒法を伝えてくれる者はいないか」

居並ぶ弟子たちは、ただうつむくばかりで、声もありません。
ややしばらくして、祥彦[しょうげん]という僧が進み出ていいます。

「日本へは途方もない滄波[そうは]を渡らねばならず、百度に一度もたどりつけぬといわれております。日本への渡航は、いたずらに命を失うばかりです」

祥彦の言葉をさえぎるように、鑑真の声が[りん]と弟子たちの頭上に落ちました。
「仏法のためである。命を惜しむべきではない。お前たちが行かないなら、私が行く」

この鑑真の言葉で、すべてが決したのです。たちどころに十数人の弟子たちが随行すると名のりでたのでした。栄叡と普照は意外ななりゆきに驚き、そして肩をだきあって喜んだのです。

9年にもおよぶ労苦がむくわれた瞬間ですが、この日から長く苦難にみちた12年の歳月のはじまりにもなったのでした。5回も渡航に失敗するからです。

一回目の渡航は、随行者の仲たがいから、役人に密告されたために、船は没収、栄叡と普照は捕縛[ほばく]されたのです。4カ月後、自由の身になった二人は、役人の目を避けて、ひそかに鑑真に会って、

「日本の仏法興隆のために、いま一度の渡航を」
と頼むと、鑑真は、
「私の決意は変わっていません」
と快く応じたのです。

二回目は、冬のこともあって波浪[はろう]にさえぎられて、中国の沿岸を転々としたのちに、明州[めいしゅう](浙江省寧波)の阿育王寺[あいくおうじ]に収容されます。

三回目の渡航計画は、鑑真をしたう諸寺の僧たちが、

「日本僧の栄叡が、和上をそそのかして日本に密航しようとしている」

と役人に訴えたために、またもや栄叡は捕らわれ、計画は挫折しています。

天台山

天台山、中国浙江省東部にある霊山

四回目は、天台山を巡拝したのち、福州から密航しようとしました。しかし、鑑真の高弟である霊祐[れいゆう]らが、和上の身を案ずるあまり、渡航を役人に告げたために追手をかけられて捕まってしまいます。

鑑真は鬱々[うつうつ]たる思いで、揚州の大明寺に戻ると、人々は「和上が帰られた」と大いに喜んだといいます。

五回目は、それから3年後で、鑑真は61歳になっていました。今回も、行く手には恐るべき災難が待ち受けていました。強風と高波で航海は思うにまかせず、船は海上を漂ったのです。

このときの様子を『唐大和上東征伝』は、こう伝えています。

「船上に水なし。米をかめども[のど]の乾きで、[むせ]びて入らず、吐けども出でず。鹹水[しおみず]を飲めば、腹すなわち[ふく]る。一生の辛苦[しんく]、何ぞ、これより[はげ]しからん」

という苦難を味わったうえに、船ははるか海南島まで流されてしまったのです。

このとき鑑真は両目を失明し、栄叡はこころざしを果たせないまま病死したのでした。

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