身命を賭して伝えた戒律
日本から17年ぶりに遣唐使がやってきました。栄叡が客死して三年目のことでした。
遣唐使は、鑑真の日本への渡航が挫折していることを聞き、唐の政府に鑑真の来日を交渉しますが、不調に終わっています。
そこでまた重ねて密航を企てます。六回目の挑戦でした。阿育王寺にいた普照も、ひそかにかけつけます。
鑑真ら24人は、隠密裡に遣唐副使の船で、35日間かかって、ようやく日本の地を踏んだのです。奈良の都に着いたのは、天平勝宝6年(754)正月のことでした。
一回目の渡航から、じつに12年、その間に栄叡をふくめた36人の仲間が亡くなり、脱落者は二百余人にのぼっていました。
このとき鑑真は67歳の老齢になっていました。
鑑真は朝野をあげて歓迎されました。東大寺に招かれて、あつく歓待されたのです。
東大寺を創建した聖武上皇は、
「大仏殿を造って十余年がたった。東大寺に戒壇院を設けて、戒律を伝えたいと願いつづけてきた。いま和上が来日されて、ようやく私の心にかなうことができる。今後は、受戒伝律のことは、和上にいっさいまかせる」
という言葉を伝えたのです。
そして聖武上皇は、光明皇太后や孝謙天皇とともに鑑真から受戒されたのです。
最大の庇護者であった聖武上皇の死去後、東大寺正倉院に奉納された遺品を列記した『国家珍寶帳』には鑑真和上の来朝が大きな歓びであることが記されていて、戒律を仏教の基とする方針に変化はないことがうかがえます。
鑑真は「初志にかえって、戒律を学ぶ僧尼たちに、正しい仏教の教理と戒律を伝授しよう」と、西の京に唐招提寺を創立して、そこに居住します。これが、わが国で最初の律宗の寺院となります。
8世紀創建当時の姿を今に残す唐招提寺金堂(国宝)(画像・AdobeStock)
唐招提寺に移り住んでから四年目の天平宝字7年(763)5月6日、鑑真は結跏趺坐し、西を向いて静かに76年の生涯を閉じたのです。来日して、わずか10年でした。
鑑真の初志をつらぬく不屈な魂と高潔な人格は、時代をこえて多くの人々に深い感銘を与えたのです。
江戸時代の俳人である松尾芭蕉も、その一人です。
「若葉して御目の雫ぬぐはばや」
と詠んでいます。その句碑は唐招提寺の開山堂前に建っています。
御影堂に安置されている鑑真和上坐像は、弟子の忍基が和上の死期をさとって造らせたもので、日本に現存する最古の肖像といわれています。
おだやかな表情の中にも、不屈で強靭な意志がにじみ出ています。しかし、失明した両目は、静かに眠るように閉ざされています。
芭蕉の俳句には、その目に浮かぶ涙を、みずみずしく美しい若葉でぬぐってあげたい、という思いがこめられています。
ところで、苦難のすえに鑑真を招いた功労者である普照のその後については、あまり詳しく伝わっていません。
その功績によって母親が従五位下に叙され、普照自身は奈良にある西大寺の要職についていますが、その没年もわかっていません。
ただ、唐招提寺の創建が進められているころ、普照は道路の両わきに果物の木を植えることを進言して、それが採用されたという記録がのこっています。
その樹木によって夏は暑さを避け、飢饉になれば、その果実を食べることができます。これが日本の街路樹のはじまりであるといわれています。
普照もまた、鑑真や異国で無念の涙をのんで死んでいった栄叡とともに、初志をつらぬいた僧であったといえるでしょう。
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