鎌倉に迎えられる
道元に去られた時頼の前に現われたのが、蘭渓です。
時頼は、禅の本家といえる中国から来た蘭渓に会うために、寿福寺を訪ねます。ひと目で時頼は、蘭渓の人柄にほれ込みました。
そこで常楽寺を住院にあてると、公務のあいまに熱心に参禅しました。
かくして建長5年(1253)に建長寺が建てられると、蘭渓を開山に招き、ますます帰依したのです。一説では、建長寺は道元のために予定されていた禅寺であったともいわれています。
三門の額に書かれた「建長興国禅寺」は、後深草天皇の筆となるものです。時頼が造らせた銅鐘は、高さが208センチ余もあって、その形は関東随一の美しさといわれました。
鎌倉五山の第一となる寺が開かれたのです。最盛時には、49の塔頭があったといいます。建長寺にいること13年、その禅風は広がり、その教えは鎌倉武士の気性にもあって、深く喜ばれました。
京都・建仁寺三門。別名、「望闕楼」とも呼ばれる。江戸時代末期の建築。(画像・AdobeStock)
文永2年(1265)、京都の建仁寺にうつり、十一世住持となります。
後嵯峨上皇から帰依をうけ、しばしば宮中に参内して禅の教えを語り、御下問にも接しました。また多くの高僧も参問して、蘭渓の名声は高くなっていったのです。
建仁寺にいること3年、鎌倉に帰り、時頼亡きあと執権となった北条時宗が再興した禅興寺の開山となり、やがてふたたび建長寺に住したのです。
文永8年(1271)9月12日の夜、日蓮が竜ノ口で斬首されようとした、いわゆる「竜ノ口の法難」のさい、幕府に命ごいをして救ったのは、蘭渓であったといいます。蘭渓は、日蓮をしばらく建長寺に置いたともいわれています。
そのとき日蓮は、「禅天魔」とののしったといいますが、蘭渓はただにっこりと微笑んだといいます。
禅は一方にかたよることを嫌いますので、禅天魔といわれても、禅善魔といわれても、その両方をつつんで超える境地に立たなければなりません。その意味で日蓮の痛罵も蘭渓にとっては、そよ風のようなものであったのでしょう。
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