二度の追放に遭うも
建長寺に戻ると、蘭渓の禅風が鎌倉、京都を中心に盛況であることに嫉妬する者が現われて、根も葉もない流言を飛ばしました。
「蘭渓は恐ろしい人物だ。京都に3年いたあいだに、上皇や公卿たちに近づいて、幕府の政権をくつがえして天皇親政をたくらんでいる」
以前、天皇親政をくわだてて決起した承久の乱では、幕府は後鳥羽上皇らを撃退して幕府の実権を確保していましたが、道元も説いたように、政権を天皇に返すべきだという声があったのです。蘭渓も、そのお先棒をかつぐ者と見なされたのでした。
蘭渓の追放には、もう一つの背景があるようです。それは蒙古(元)から隷属しなければ、攻め滅ぼす、という使者が日本にたびたび来ていたからです。中国人の蘭渓は、日本の情報を伝えるスパイと誤解されたようです。
平素から朝廷の動きや蒙古の動向に神経をとがらせていた幕府にとっては、聞き捨てならない流言です。
若い時宗は、ついには捨てておけなくなり、蘭渓は建長寺を追われて、山梨に流されることになったのです。
これを聞いた山梨の道俗は、
「ありがたいことだ。はからずも生き仏をお迎えできるとは、なんという善縁であることか」
と喜びました。
蘭渓も冤罪であることを、まったく弁明することなく、むしろ喜びの顔で弟子たちに、こういったのです。
「仏弟子は忍辱行(耐え忍んで心を動かさない修行)を第一とするものである。
他人からの憎悪や罵詈雑言をうけても、決して瞋りの心を起こしてはならぬ。
みずから瞋れば、他の瞋りを増す。それは自他ともに悪業を重くするだけである。されば、仏も忍を行じる者を有力の大人となす、と遺誡された。決して瞋り、恨みの念をいだくことなかれ」
と説きました。さらに、
「私が、はるかに渡海して、この日本にきたのは、正法を広めるためである。だが、これまでは鎌倉と京都で広めただけで、しかも高貴な人や高位の武人に説いてきた。これは私の本意ではない。
このたび仏法を未開の土地で、しかも一般の民衆のために説くことができるのは、私の宿願を満たすものである」
と、その志を説いています。
山梨に入ると、数多くの道俗が集まり、たちまち建長寺や建仁寺と同じように盛んな法筵が開かれるようになったのです。蘭渓は甲府に東光寺を開創しています。
山梨にいること三年、許されて鎌倉に帰りますが、また讒言にあって、ふたたび甲府に流されています。
それにもくじけずに、禅の布教に熱心に取り組みます。今、塩山の向岳寺には、蘭渓の讃がある達磨絵が残っています。
しかし、すぐに事の真相が判明すると、時宗は前非をくいて、寿福寺に迎えると、弟子の礼をとって、熱く帰依しています。
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