禅師号をおくられる
弘安元年(1278)、また建長寺に入ります。蒙古が来襲した文永の役の4年後のことですので、冤罪は完全に晴れていたのでした。
蘭渓道隆開山の鎌倉・建長寺の三門。(重要文化財)(画像・AdobeStock)
時宗は蘭渓のために大伽藍を建立しようと、土地を選定しますが、その間に蘭渓は亡くなっています。66歳でした。
火葬にふしたとき、その煙が立ち上がると、煙がふれた木々の枝に宝玉のような五色の霊骨が、無数に鈴なりについたといわれています。
あるいは、死を聞いて遠方からかけつけた人は、葬送の数十日後でも、枝を捜し求めると、なお数個の霊骨を拾うことができたといいます。
また死後に蘭渓が常用していた鏡の面に、うっすらとした影像が現われた。どうやら観音菩薩の姿のようです。
これを見た弟子たちが不思議なことだと思っていると、そのうわさがしだいに広まっていきました。
これを聞いた時宗は、鏡を調べてみると、ごく薄くではあるが、たしかに影像がみとめられます。
そこで研師に命じて磨かせると、そこには観音菩薩の尊像が浮かび上がってきたのです。時宗は大いに驚いて、思わず礼拝したといいます。
亡くなって一年後、亀山上皇から、日本ではじめての禅師号となる「大覚禅師」がおくられています。
蘭渓は遺誡に、匂いの強いニラなどの野菜や、酒、肉を寺内で食べることも、門前で売ることもいましめています。
「坐禅だけが大切であって、ほかは余計なことである」
という蘭渓は、坐禅による純粋な禅を求め、それを日本に伝えたのです。蘭渓の法系は建長寺を中心に発展して、大覚派と呼ばれました。
ちなみに蘭渓の禅法にふれた時宗は、同じ中国人の禅僧である無学祖元を円覚寺の開山として迎えて、二度目の蒙古来襲となる弘安の役に立ち向かう精神を鍛えることになるのです。
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