日本仏教を形づくった僧侶たち

「隠元隆琦」―宇治に萬福寺を建てて黄檗宗を伝えた中国人僧―

作家 武田鏡村
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反響を呼んだ来日

そのような隠元が、日本にやってきたのです。承応[じょうおう]3年(1654)のことで、隠元は63歳でした。

長崎の風景

長崎の風景(画像・AdobeStock)

隠元を日本に招請[しょうせい]したのは、長崎にある中国系の寺院です。長崎には興福寺[こうふくじ]福済寺[ふくさいじ]崇福寺[そうふくじ]の、いわゆる〝三福寺”に中国からの渡来僧がいて、長崎に多くいる中国人の葬送[そうそう]などにあたっていました。しかし、教義や教化の面では、あまり実績はなかったようです。

そこで興福寺の逸然[いつねん]が、隠元を日本に招いたのです。また日本では中国の禅法への憧れが強くあったのですが、鎖国令で中国に行くことができません。隠元の来日は、日本の禅僧たちも期待していたのです。

一方、隠元は日本が平和で禅宗が盛んなことを知っており、すでに弟子を派遣していましたが、船が沈没して亡くなっていました。そこで隠元みずから日本へ行くことを決意したのですが、この動機の背景には、漢族[かんぞく]の明朝が、満州[まんしゅう]族の清朝[しんちょう]によって崩壊していたということがあったようです。

隠元は、日本に3年間いるという約束で、30名ほどの弟子などを連れて長崎に着きました。それを知った日本の臨済宗や曹洞宗の禅僧たち数十名が、隠元の教えを受けようとして長崎にきました。

その中には、のちに病人や貧者の中で生活しながら救済する桃水[とうすい]という曹洞宗の禅僧もいました。

隠元の来日は反響を呼んで、一時は京都の妙心寺[みょうしんじ]に迎えようという動きもありました。これは鎌倉期以降の臨済宗を保ちたいとする勢力によって沙汰[さた]やみになります。

妙心寺への招請は不首尾となり、摂津[せっつ]高槻の普門寺[ふもんじ]に迎えられ、新寺建立の流れがはじまります。

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