江戸で法を説く
当初、徳川幕府は、隠元は中国が派遣した密偵ではないか、と疑っていたようです。中国を支配する清国が日本の情勢を探るように放ったスパイという嫌疑です。
そのため普門寺で修行する日本僧を200人に制限しましたが、隠元の人柄や教えを調べるにつれて、しだいに嫌疑はなくなっていきます。
隠元の身辺調査は、京都所司代の板倉重宗によって行なわれたようです。板倉が隠元と対話した話があります。
「禅師は、中国の黄檗山で、獅子岩という時々動く岩の上で坐禅されていたとき、その岩が粉々に砕けたと聞きました。それは奇跡ということでしょうか」
板倉は、隠元が奇跡を得々と語るか、あるいは否定するかをうかがったのです。
これに対して隠元は、さらりと、こういったのです。
「それより、私が中国のどこで生まれたかは、あなたは知らない。私もあなたが日本のどこで生まれたかは知りません。そんな二人が今日こうして対面していることこそ、奇跡ではありませんか」
隠元は、板倉重宗の疑念をさりげなくかわして、人の出会いの不思議さ、縁の大切さを説いたのです。
板倉が感服したのは、こればかりではありません。隠元が、つねづね説いている、
「参禅は、一人が万人を敵とする心がまえで行なうことだ。賊の陣中に入って賊の大将の首を取るような気構えであたることだ」
という武闘的な禅風が、武士の精神鍛錬にかなうものであると知ったのです。
やがて隠元は、江戸に招かれて、湯島の麟祥院で、集まってくる道俗に法を盛んに説くようになります。
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