宇治に萬福寺を造営
隠元のことは、幕府の老中でも話題になり、ついに四代将軍の徳川家綱が江戸城に招いて謁見します。
このとき老中の酒井忠清や稲葉正則らが法要を問うたといいます。おそらく、通訳をとおした隠元の禅要は、歯切れがよかったのでしょう。しかも、隠元の人を包み込むような温顔や、親しみやすい人柄が老中や居並ぶ大名に好感を与えたようです。
京都・萬福寺の法堂。(画像・AdobeStock)
幕府は隠元のために、京都の近傍に一寺を建立させる意向を伝えます。寛文元年(1661)、宇治に寺院の建築が開始されます。隠元は、この寺を故国と同名である「黄檗山萬福寺」と名づけたのでした。
萬福寺の造営には、幕府や多くの大名から寄進があり、その伽藍は、明風のもので、現在でもその余韻をただよわせています。そんな伽藍に接すると、あたかも中国にいるかのようです。
幕府あげての協力には、鎌倉幕府が中国人僧の蘭渓や無学に与えた鎌倉の建長寺や円覚寺に匹敵するものがありました。
こうした厚意を受けた隠元は、ついに帰国の意志を思いとどまらせて、日本に永住することに決めたのです。
隠元は日本で本格的な布教に本腰を入れ、幕府や諸大名の帰依をえて、三千五百寺ほどの黄檗寺院を開きます。
しかも後水尾上皇の御下問に答えて禅要を説いて、上皇の帰依も受けるようになったのです。
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