北条時宗との出会い
弘安元年(1278)、鎌倉幕府の執権となる北条時宗は、師と仰いだ蘭渓道隆(前回を参照)が亡くなると、代わりの禅僧を求めます。蘭渓の弟子を中国に派遣して、適任者を物色させました。
景徳寺の環渓は、時宗の懇請の手紙を読むと、迷うことなく無学を推薦したのです。
無学もすぐに応じます。モンゴルという異民族に蹂躙される故国への思いが、これから侵略されようとしている日本を救いたいという思いに重なったようです。
無学が日本に来たのは、弘安2年(1279)6月のことでした。時宗は蘭渓が住した建長寺の住持として迎え入れたのです。
元寇イメージ図(画像・AdobeStock)
これより5年前の文永11年(1274)には、元軍の900艘の軍船が九州の博多に襲来していました。
このときは上陸を許していますが、大風のために、ほとんどの軍船が難破して、潰滅しています。
しかし、元国の日本支配の野望は、これで終わりではなかったのです。幕府は再度の襲来を防衛するために、大量の武士団を北九州から山陰地方にかけて布陣させます。要地の守護には、北条一門を配置することも忘れませんでした。
さらに先手をとって、兵站となる朝鮮を攻める計画を立てていますが、これは国民の結束と戦意を高めるためのもので、実行はされていません。
元との関係は緊迫していきますが、その間、時宗は建長寺にいる無学に参禅して、国を導く指導者としての度量を養っています。
無学は、時宗が動揺したり、見識が不十分であると見ると、通訳を警策で打ちつけたのです。国主となる時宗を打つことをはばかったからです。
無学は、「莫煩悩――煩悩にとらわれるな」を提議して、時宗の心境を強くしようとします。
煩悩にとらわれると、雑念が生じてきて、清明で冷静な判断ができなくなるからです。指導者に必要なものは、心を乱さずに決断し行動することです。
無学は「莫煩悩」を時宗に提議することで、国の一大危機が到来したとき、あれこれ煩悶することはない、一切を断ち切って、前へ前へと進むことだ、と教えたのです。