日本仏教を形づくった僧侶たち

「無学祖元」―元軍の襲来時に日本の指導者を奮い立たせた中国人僧―

作家 武田鏡村
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円覚寺の開山第一世に

無学が来日して2年後の弘安4年(1281)、再び元軍が10万の兵員をのせた軍船で襲来してきます。

それを伝える使者が鎌倉の時宗に派遣されます。その知らせに接した時宗は、さっそく無学のもとに行くや、
「ただいま一大危機が到来しました」
と叫ぶと、すかさず無学は、
「どう前に進むか」
と問います。すると時宗は、あたかも目の前に群がる敵の大軍を叱咤[しった]し、飲み込んだかのように、
「カーッ」
一喝[いっかつ]したのです。これを見た無学は、大いに喜んで、
「まことの勇者だ。まっしぐらに前に進んで、後ろを[かえり]みるな」
と激励したのです。

もちろん、こうした精神論だけでは、大軍を倒すことはできません。しかし、指導者としての時宗の不屈の気魄[きはく]が防衛する人びとに伝わり、戦意を高めたことはいうまでもありません。

元軍は、中国と朝鮮から軍船を発しましたが、お互いの連携がとれず、しかもコレラが船中に発生したことから、戦意はきわめて低かったのです。

しかも大挙して博多湾に襲来した軍船は、大風雨によって打ち砕かれて、敗走したのでした。
弘安5年(1282)、円覚寺[えんがくじ]が創建されると時宗は開基となり、無学を開山第一世に迎えて開堂の儀を行います。建長寺の住持との兼任でした。

鎌倉・円覚寺の舎利殿。(国宝)(画像・AdobeStock)

円覚寺の創建の趣旨は、まず国家を鎮護[ちんご]し、仏法を興隆するためであり、さらに元軍の襲来で戦没した敵味方の霊をしずめるためでした。敵と味方を分けへだてることなくとむらう、という素晴らしい心が日本人にはあったのです。

開堂の日、無学の説法を聞きに集まった人びとと共に、どこからともなく白鹿の大群がやってきたといいます。

人びとは驚きましたが、無学は、
「これは釈尊[しゃくそん]鹿野苑[ろくやおん]における初転法輪[しょてんほうりん](最初の説法)にくらべられるほどの吉兆[きっちょう]だ」
と大いに喜んで、山号を「瑞鹿山[ずいろくさん]」と命名したのでした。

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