日本仏教を形づくった僧侶たち

「無学祖元」―元軍の襲来時に日本の指導者を奮い立たせた中国人僧―

作家 武田鏡村
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仏光禅師と諡号される

弘安7年(1284)、時宗は34歳の若さで亡くなります。国難となった二度の元寇[げんこう]の心労が、死期を早めたといわれています。

無学は悲しみのあまり故国に帰ろうとします。しかし、多くの道俗は強くこれをとどめます。執権となった北条貞時[さだとき]も、時宗におとることなく無学を尊信します。

これに答えて無学は、
「私は中国の道俗から日本に行かないでくださいと泣かれたが、二、三年で帰るといって来日した。いま帰国を思いとどまるのは、皆さんに仏法を教えるためである。皆さんは、厳しい修行に耐えて、私の願いを果たしてほしい」と説諭しています。

弘安8年(1285)、大旱魃[だいかんばつ]に見舞われると、貞時は龍の像を造らせて、無学に祈祷[きとう]をお願いしました。

無学が一偈[いちげ]を読んで、龍の角を叩くと、見る見るうちに黒雲が天地をおおい、雷鳴がとどろきわたると、豪雨がふりしきり、穀物を再生させたのです。人びとは感嘆して、ますます無学を慕うようになったのです。

翌弘安9年(1286)、円覚寺の[かつら][くすのき]が急に枯れしおれたのです。何の前兆かといぶかっていると、無学が発病したのでした。そして、貞時をはじめ関係者を招くと、最期の一偈を示したのです。そこには、
「来たるも、また[すす]まず、去るも、また[しりぞ]かず。
百億毛頭[ひゃくおくもうとう]獅子現[ししげん]じ、百億毛頭に獅子[]ゆ」
(生も死もない。全身を勇者の獅子と化して、吼えつづけるだけだ)
と書くと、息を引き取ったのです。61歳でした。無学は、仏光[ぶっこう]禅師と[おくりな]され、その法系は仏光派といわれています。

作家
武田 鏡村(たけだ きょうそん)
1947年、新潟県生まれ。作家、日本歴史宗教研究所所長。主な著書に『良寛 悟りの道』(国書刊行会)『一休』(新人物往来社)『「禅」の問答集』(河出書房新社)『名禅百話』(以上、PHP文庫)『親鸞 100話』(立風書房)『親鸞』(三一書房)『般若心経』(日本文芸社)『清々しい日本人』『図解 五輪書』『決定版 親鸞』(以上、東洋経済新報社)ほか多数。
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