仏教の興隆
厩戸王子が生まれたころは、仏教を崇拝する「崇仏派」の蘇我氏と、それを排斥する「排仏派」の物部氏が対立抗争をくり返していました。王子は次の「聖徳太子と蘇我氏の略系図」でもわかるように、蘇我氏の系譜に属しています。
用明天皇が亡くなると両氏の対立は激化して、ついに皇家や群臣を二分する戦いに発展しました。14歳の厩戸王子は、蘇我馬子に加担して、戦勝を祈願します。それは「この戦いに勝利したら、仏法の守護神である四天王像をつくって安置する」というものでした。
そして物部氏を滅ぼすことができると、奈良の飛鳥に法興寺(飛鳥寺)と、大阪に四天王寺を建造しています。もちろん「崇仏派」の蘇我氏の後ろ楯があったからできたのです。
これ以降の厩戸王子の活躍は、目ざましいものがありました。女帝となる推古天皇をささえるために摂政になると、まず行なったのが仏教を興隆させるために「三宝興隆の詔」を発布します。
三宝とは、「仏・法・僧」のことで、これを篤く敬えというものです。この詔は、天皇がはじめて仏教を容認して、仏教の興隆を国家の政策とすることを宣言したのです。
これによって仏教興隆の気運が高まり、群臣は競うように寺をつくり、百済や高句麗から多くの僧侶が渡来するようになります。
王子は仏教を国家の理念として掲げますが、それだけではありません。国のあり方として、制度や基本政策にも仏教の教えを具体的に示したのです。それが「冠位十二階」であり、「十七条の憲法」です。
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