九州への流罪
ところが秀吉は、天正寺にかかわることができないほど多忙をきわめたのです。
まず信長の重臣であった柴田勝家が、秀吉の前に立ちふさがります。そればかりか、信長の子どもの信孝も反秀吉を鮮明にして戦う姿勢をみせたのでした。
そのため秀吉は大坂城の築城を急がせる一方で、しばしば近江(滋賀県)や美濃(岐阜県)に出兵していたのです。これが、やがて賤ヶ岳の合戦となり、秀吉が勝利をおさめたのでした。
さらに徳川家康が信長の遺児である信雄と組んで、反旗をひるがえします。これが小牧・長久手の戦いとなります。そして、四国の長宗我部氏を攻略したりと東奔西走していました。
そうこうしているうちに、もはや主君信長の菩提を弔うよりは、自分の威光を高めたいと秀吉は思うようになったのです。
天正寺のことは棚上げにして、京都東山の麓に大仏殿の建立を命じたのでした。これが方広寺の大仏です。
古渓は協力を求められたようですが、天正寺の約束が実行されていないことから、それに応じなかったようです。
このへんから古渓と作事奉行になっていた石田三成との関係がこじれたのです。
三成は、古渓と利休が船岡山にあった古墳墓を大徳寺に移したことを非難して、天正寺の造営を完全に放棄したのです。現在では信長を祀る建勲神社が残っています。
武家の気風が残る硬骨漢の古渓は、この処置を三成に向かって抗議したのでしょう。その結果、秀吉によって九州に流罪にされたのでした。
それ以前、秀吉は古渓のために紀州(和歌山県)の根来寺にあった伝法院を堺に移して海会寺を再興していますから、秀吉は古渓を厚遇していたのです。しかし二人の関係を引きさく讒言があったのでしょう。
流罪になる前夜、利休は古渓と二人だけの茶会を行ないました。そこには中国の禅僧である虚堂の掛軸が掛けられていました。
虚堂の書は禅僧なら欲しいものですが、きわめて高価なもので秀吉が所蔵していたのです。
利休は、それを秀吉には内緒だとして、古渓の流刑の餞にしたのです。古渓と利休とは、心で深く結ばれていたのです。
のちに利休は秀吉から切腹を命じられますが、こんなところにも利休と秀吉の乖離があったことがうかがわれます。
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