豊臣秀長の寵愛
古渓は、はじめは九州の大隈半島に流されることが決まっていたようですが、それが大宰府が配所とされ、さらに博多に変えられたのです。それには利休と秀吉の弟の秀長の働きかけがあったようです。
利休と秀長は、秀吉の権力を支える両輪で、その影響力には強いものがありました。古渓の流罪がとけると、秀長が後見人になっています。また秀長の葬儀は古渓が導師になっていますから、その関係は深いものがあったのです。
ちなみに、秀吉を支える両輪を苦々しく思っていたのが、石田三成らの官僚派といわれる人たちでした。
古渓の流罪は、官僚派が上げた狼煙であったのです。それは、やがて利休の身にも及んでくるのでした。
博多に流された古渓は、奈良屋町の近くに大同庵を構えて、神屋宗湛らの博多の茶人を招いて茶会を開いています。
また古刹の聖福寺や崇福寺への出入りも許されるといった罪人とは思えない生活を送っています。これにも利休や秀長が秀吉に取りなしたことが考えられます。
さらに、一年あまりで流罪が許されたのも、彼らの尽力があったのでしょう。
帰京した古渓は、大徳寺を出て郊外の市原に常楽庵を構えています。
天正19年(1591)正月、利休とともに秀吉を支えていた秀長が、大和(奈良県)の郡山城で亡くなりました。葬儀の導師には、先述したように古渓が選ばれています。
古渓の秀長を讃える法語には、
「人徳をもって豊臣家を興し、その武勇は多くの軍神を敬服させるものがあり、日本六十余州をまとめた英傑である」
と最大の賛辞を贈っています。
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