利休の死
秀吉政権の両輪となる秀長の死で、残ったのは利休であるとする石田三成は、罪状をでっちあげて利休を切腹においつめたのです。
その罪状は、二つです。
一つは、大徳寺の山門である金毛閣に利休の自像が置かれていたことです。
しかも雪踏ばきであったことが、身分をこえた差し出がましいことで、僭上のかぎりである、というものです。
関白秀吉も山門をくぐるときには、利休の雪踏で頭をふまれるから、僭上であるというものでした。
いま一つは、茶道具の目利きや売買によって、不正な利益を得ていたというものです。
当時の茶匠ならば、目利きや売買はだれでも行なっていたのですから、利休だけがことさら不正な利益を得ていたわけではありません。
また、利休の木像の自像は、1年前に完成して、すでに山門にあったものでした。
大徳寺では、慣例として諸堂や塔頭を寄進した人の自像を安置することが行なわれています。
金毛閣の修造に多額の寄付をした利休の木像が、そこに安置されたのも、利休だからといった特別な理由があったわけではありません。
すでに世の中に容認されていた既成の事実を逆手にとったもので、それが死にあたいするとされたのですから、まったくの言いがかりです。
秀長の死の直後から、こうした策謀が行なわれていたのは、やはり三成らの官僚派が、利休を煙たがっていたことをうかがわせます。
利休は京都から堺に追放され、ついで京都に召喚されて切腹を命じられたのは、秀長の没後二カ月です。その間、古渓は助命に奔走したと思われますが、その効果はなかったようです。
千利休が営んだ茶室「不審庵」(画像・AdobeStock)
利休は、秀吉の母親の大政所や正室の北政所にすがって助命を嘆願すべきだ、とする前田利家の忠告も拒んで、平然として切腹したのです。
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