日本仏教を形づくった僧侶たち

「古渓宗陳」―千利休の師となる大徳寺の禅僧―

作家 武田鏡村
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大徳寺を死守

大徳寺の塔頭

臨済宗大徳寺派の大本山大徳寺の塔頭のひとつ。開基は千利休七哲の一人、細川忠興(画像・AdobeStock)

さらに、むごいことに利休の首は、大徳寺の金毛閣から引きおろされた利休の木像の足もとに、これ見よがしに置かれます。そして聚楽第じゅらくてい近くの一条戻橋いちじょうもどりばしさらされたのです。
それでも気がすまなかった秀吉は、木像を安置した大徳寺伽藍がらん破却はきゃくを命じたのです。

その使者になったのが細川忠興ほそかわただおきなど四人です。彼らは破却命令を伝えたのですが、彼らの前に立ちふさがったのが古渓でした。

古渓は、四人の使者と対面すると、
「大徳寺を壊すなら、死をもって抗議する」
と懐中から短剣を取り出して、決意を示したのです。

使者たちは、一身で大徳寺を守ろうとする古渓の決意に感激しました。そして、秀吉を説得して、大徳寺の破却を思いとどまらせたのです。

使者たちも秀吉も、心の中では古渓のような硬骨漢を尊敬していたようです。
翌年の文禄ぶんろく元年(1592)に秀吉は、秀長の冥福を祈るために郡山に大光院たいこういんを建てると、古渓を迎えていたのでした。

文禄5年(1596)8月、古渓は急病になったのですが、よほどの重態であったのでしょう。弟子から遺偈ゆいげを求められると、次のような偈を書き与えています。
「六十余年、胡喝乱喝こかつらんかつす。末後の転機、一喝を作さず」
(六十余年も、漫然とした喝を放ってきた。いよいよ命が終わる転機にあたって、今さら一喝でもあるまい)

この偈からすると、古渓は弟子たちに対して、しばしば喝をあびせて厳しく指導していたのでしょう。その自信ぶりを「漫然として喝を放ってきた」と逆の表現でしているのです。

この遺偈を書くと、古渓は亡くなったのです。ところが6時間ほどして蘇生して、集まっていた人を驚かせたといいます。
それどころか息を吹き返すと、何ごともなかったかのように、平常どおりに説法したのでした。
古渓は、それから半年ばかり存命して、慶長けいちょう2年(1597)、66歳で亡くなります。

その間、後陽成ごようぜい天皇から、「大慈広照だいじこうしょう」という禅師号ぜんじごうを賜っています。
千利休の禅師となって、禅の心をとおして「びの茶道」に導いたばかりか、体を張って大徳寺を守ったのが、古渓宗陳という人物だったのです。

作家
武田 鏡村(たけだ きょうそん)
1947年、新潟県生まれ。作家、日本歴史宗教研究所所長。主な著書に『良寛 悟りの道』(国書刊行会)『一休』(新人物往来社)『「禅」の問答集』(河出書房新社)『名禅百話』(以上、PHP文庫)『親鸞 100話』(立風書房)『親鸞』(三一書房)『般若心経』(日本文芸社)『清々しい日本人』『図解 五輪書』『決定版 親鸞』(以上、東洋経済新報社)ほか多数。
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