留学後の名声
こうしたことから円爾の名は高まったのですが、円爾はさらに長楽寺の栄朝のもとで修行しながら、中国宋への留学、いわゆる「入宋求法」の志を立てたのです。
やがて九州博多にいる中国商人のツテで、宋に渡ることができました。同行したのは、栄朝の弟子となる栄尊や湛慧です。
中国での円爾は、天童山景徳寺、浄慈寺、霊隠寺などの寺々で精力的に修行し、のちに径山の万寿寺にいる無準に参じます。無準のもとには、やがて日本にやってくる兀庵がいました。
円爾は7年の求法を終えると、博多に帰ります。帰国のさいに携えた典籍は千巻余といわれ、これによって仏書や儒書の研究が飛躍したといいます。
また製粉機を伝えたことから、博多素麺や伊予素麺が興ったといわれ、さらに博多焼をはじめ、博多祇園祭りの山車も円爾の創案ともいわれています。
博多祇園の山笠(画像・AdobeStock)
中国から持ち帰った茶種を駿河にもたらし、これが静岡茶の元となったともいわれています。
円爾の名望は高く、崇福寺や承天寺、万寿寺が創建されるや開山に迎えられています。
こうして博多を中心にして、禅風が大いに高まると、その声望をねたむ大宰府にいる僧徒は、朝廷に承天寺の破却を奏請しました。
しかし、朝廷は逆に崇福寺と承天寺を官寺とし、それのみならず崇福寺に「西都法窟」(九州仏法の拠点)という後嵯峨天皇の勅額をくだしたのです。