東福寺の開山に
やがて円爾は、九条道家に招かれて京都に行きます。
九条家は、摂政・関白になれる家柄で、当然ながら道家もその職についていて、政界に大きな力を持っていました。
しかも、四男の頼経が鎌倉幕府の四代将軍になっていたので、京都や鎌倉でも隠然とした力をふるっていました。
九条道家は、仏教の興隆を目指して、宗派ではなく総合的な仏教のあり方を模索していました。そこで禅をはじめ天台・真言などにも精通している円爾に注目したのです。
道家は円爾の仏教の造詣の深さに感服して、僧正に任じようとしますが、円爾は辞退します。しかし、円爾こそが日本仏教の再興者であると考える道家は、「日本国総講師」に補任しようとしますが、円爾はこれも受けつけなかったのです。
そこで「聖一和尚」の尊称を贈ります。これは、中国径山を開いた法欽が唐の代宗皇帝から、国中で第一の仏教者であるとして「国一」の号を与えたことに由来しています。
円爾の名は高まり、後嵯峨上皇をはじめ、後深草上皇、亀山上皇や朝廷の高官、延暦寺の高僧たちも教えを受けています。
円爾の活躍は京都だけではありません。鎌倉幕府の執権である北条時頼に招かれて、鎌倉にも赴いています。
栄西が開いた寿福寺で時頼や御家人たちに禅法を説き、参禅問法を行なっています。さらに中国僧の兀庵や、建長寺の開山となる蘭渓とも親交して、いろいろな便宜を図っています。
建長7年(1255)、東福寺の大仏殿が落慶し、円爾は開山に迎えられます。
円爾は、その数年前に右眼を失明していますが、それにもかかわらず精力的に布教をしていました。
東福寺の三門(画像・AdobeStock)
東福寺は、
「その基礎は東大寺をつぎ、その盛業は興福寺にとる」
と道家の発願文にあるように、東大寺と興福寺の一字をとったものです。その規模は広大なもので、道家は完成を見ずに亡くなっていました。
その遺志は子どもたちに受けつがれ、そのほかの諸堂が出来上がったのは、それから18年の歳月がかかっています。
ちなみに、円爾と同時代を生きた道元は、中国で禅法を習得して帰国しますが、権力の庇護を受けることを拒んでいます。
そして修行者に純粋な禅を体得させるために、越前(福井県)の山中に永平寺を開いています。
それに比べて円爾は、権力者のもとで仏法を広めていったのです。その姿勢は、ちょうど栄西の生き方に重なるものがあります。