日本仏教を形づくった僧侶たち

「親鸞」―仏教の根幹に立った「悪人正因」の信仰―

作家 武田鏡村
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阿弥陀如来を強く心に

親鸞聖人廟(写真提供・公益社団法人新潟県観光協会)

親鸞が関東に向かったのは建保2年(1214)、42歳のときでした。恵信尼が娘の覚信尼に送った手紙には、上野(群馬県)の佐貫で親鸞は浄土三部経を千回読もうとしたが、数日して、「これは自力の行だ」と思い直して、常陸(茨城県)に向かったとあります。
佐貫は、信濃(長野県)の善光寺から碓氷峠を越えて、利根川と渡良瀬川の津頭にある佐貫荘のことです。そこにある法福寺には、善光寺信仰があり、太子堂には親鸞の高弟の性信の坐像が安置されています。また善光寺の本堂外陣には「親鸞松」があり、境内には「親鸞聖人の爪彫り阿弥陀如来像」があります。

これらは親鸞と善光寺の関係を示すものですが、それよりも重要なことは、親鸞が越後から常陸に向かうにさいして何故、佐貫で三部経を読もうとしたのかということです。おそらく親鸞は、善光寺信仰では三部経を読むことで極楽往生がかなうという「行」がある。その信仰が定着している関東に行くにあたって、その「行」をしなければ受け入れてもらえないのではないかと考えたのでしょう。しかし、

「自信教人信」

自らが信じ切ってこそ、人に教えて信じさせることができる、という立場にありながら、「南無阿弥陀仏」の名号のほかに経文を読むことはないと反省して中止したのです。これは善光寺信仰にある三部経の「行」への依存から脱却して、ただ純粋に阿弥陀如来の本願に導かれようとする親鸞の強い決意を表わしています。

親鸞が向かう関東の各地には、善光寺信仰と、それと同体となる聖徳太子信仰が定着していました。この信仰は、民衆に開かれていたものです。そこには阿弥陀如来の本願は、貴族や僧侶、多額の布施や仏像などの寄進が行なえる善行ができるために「善人」とされる人々ではなく、それができないために社会から悪人視されている最下層の人々を救うと誓っている、と親鸞は考えたのです。一切の「行」を行なうことができない「悪人」こそが、本願につつまれているというものです。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』)

阿弥陀如来を信じて、すべてを任せて生きることで救われる。善行をする善人が往生できるのなら、何の「行」もできない悪人こそが救われるということです。

阿弥陀如来を信じることで、それまでの土着的な信仰にある障りや祟りなどの罪業観や、一切の呪術的なことからも解放されるとして、
「信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」(前掲書)
と説いています。

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