悪人視される人を思って
新潟県上越市五智・親鸞聖人上陸の地(写真提供・公益社団法人新潟県観光協会)
関東に行った親鸞は、常陸の笠間にある稲田草庵(西念寺)でひたすら『教行信証』を書き、聞法のために訪ねてくる人に教えを説いて、二十数年過したといわれています。
しかし、親鸞の足跡は利根川や鬼怒川、那珂川、久慈川といった河川や、飯沼や大宝沼、霞ヶ浦などの湖沼の周辺に残されています。そこは朝廷や鎌倉幕府の荘園や地頭の支配下ではなく、漁師や猟師、船乗り、商人、職人、荘園外の耕作民など体制外で生活するがゆえに悪人とされていた人々が集まっていた所です。
親鸞は稲田草庵で隠居していたのではなく、そうした悪人視されていた人々が集まる所に積極的に布教していったと思われます。そこには善光寺信仰や聖徳太子信仰、さらには鹿島神宮の中にある観音信仰を奉じる念仏者たちがいました。親鸞は、そこの念仏者たちに阿弥陀如来の純粋な信仰こそが往生できると説いて回ったのです。
よく関東での親鸞の布教対象は農民であるとされてきましたが、それも間違いです。布教の対象は、主に河川や湖沼の周辺にある念仏堂や太子堂で念仏信仰を説くことで、信仰集団を形成していた堂主や聖たちでした。その結果で生じたのが、関東二十四輩という門弟たちでした。彼らは親鸞に導かれて、土着的な信仰を棄てて、阿弥陀如来への純粋な信仰に回心した人たちであったのです。
親鸞が稲田草庵に住んだのは、関東時代の後半からで、そこで布教のために書き集めていた経典を整理して、『教行信証』をまとめたものと思います。そして、関東を去って京都に戻ったのは、嘉禎元年(1235)、親鸞が63歳のころのことで、鎌倉幕府から出された念仏禁止令があったからでしょう。
親鸞が説く悪人こそが往生できるという教えを曲解して、悪行を犯しても往生できるとして、ことさら悪行をする念仏者が現われていました。これは「本願ぼこり」といわれて、親鸞は否定したものですが、これが幕府の禁止の対象となったのです。
親鸞が京都に戻ると、関東では念仏に関する訴訟が幕府に出されています。親鸞は関東の門弟たちに手紙で教化と指導を行なっていますが、晩年の84歳ころに、一大問題が生じました。
それは自分の代わりに関東に派遣していた子供の善鸞が、親鸞が説いていた教説とはまったく違うことを教えて、門弟の中で混乱と分裂が生じたのです。
おそらく善鸞は、親鸞が否定した土着的な罪業観を説き、呪術的な信仰を勧めたのでしょう。それは親鸞の信仰を根本から否定するものです。親鸞は、善鸞と親子の縁を切ることで、阿弥陀如来信仰への純粋性を保ったのでした。
弘長2年(1262)、親鸞は娘の覚信尼らに看取られながら90歳で亡くなりますが、阿弥陀如来は自然そのものであるとする「自然法爾」という優れた文を書き残しています。
なお、親鸞の詳しい生涯と信仰については、拙著『決定版・親鸞』(東洋経済新報社刊)を参照してください。
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