日本仏教を形づくった僧侶たち

「法然」-極楽往生を民衆に導いた念仏僧-

作家 武田鏡村
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

仏教の救済を民衆に

琵琶湖から見る比叡山

琵琶湖から見る比叡山(写真提供・比叡山延暦寺)

法然が求めたものは、源信(恵心)の『往生要集』の一文にありました。
「往生するためには、ひたすら仏に心をかたむけ、阿弥陀如来が衆生を救う来迎図を見たりする観仏を行ない、また往生した人に思いをめぐらせて、もっぱら称名念仏せよ」
源信は、観仏を助けるために称名念仏せよと説いていますが、では観仏できるような財力やゆとりのない人は往生できないことになります。牛馬のように田畑をはいずり回って働き、食糧さえなかなか口にできない貧しい人たちは、往生することができず、地獄に堕ちることになります。法然は、そうした弱者を救う教えがないかと、膨大な『一切経』を五回も読んだといいます。

そして、ついに中国唐代の人で、浄土教を大成した善導が書いた『観経疏(かんぎょうしょ)』に出会ったのです。法然は善導に導かれながら、
『阿弥陀如来は法蔵比丘の昔から平等慈悲の仏法で、あまねく一切の人々を救済せんがために、造像や起塔などの諸行をもって往生の本願とせず、ただ称名念仏の一行をもって本願とした』
と、ただ「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで往生できると確信したのです。

法然は、ついに「諸行」を旨とする比叡山と決別しました。それは親鸞が生まれて2年後のことで、源頼朝が伊豆で挙兵する5年前の安元元年(1175)、法然が43歳のときでした。このとき法然は、
「南無阿弥陀仏とお念仏さえ唱えれば、貴人も俗人も、貧しい人も無智な人も誰でも阿弥陀如来の本願によって救われて、浄土に行くことができる」
と、専修(せんじゅ)念仏を打ち立てたのです。これは、それまでの仏教から救われない対象とされていた多くの民衆に光明を与えることになったのです。

やがて法然は専修念仏の教義となる『選択(せんじゃく)本願念仏集』を著わしますが、その中で貧者や弱者の側に立って、こう説いています。
「念仏を唱えるだけで一切の人が救われる。阿弥陀如来は一切の衆生を平等に往生させるために難行を棄てて、易行を選び取って本願としたのである。もし造像や起塔をもって本願とするならば、それができない貧窮者は往生できないことになる。しかも富める者は少なく、貧窮の者ははなはだ多くいる。

また、もし智慧や才能に富んでいる人をもって本願とするならば、愚鈍で無智な人々は往生の望みを断たれることになる。しかも智慧深き者は少なく、愚痴の民衆ははなはだ多くいるのである」

さらに法然は、僧侶のように持戒持律を保つ人のみが往生できるとするならば、破戒無戒の民衆は往生できないことになる。しかし、僧侶のような人は少なく、女犯や肉食などをしている破戒の人たちが圧倒的に多くいるのである。

それらの人々を救うと誓っているのが阿弥陀如来であるから、それに帰依すれば往生できる、と説いたのです。

法然の信仰は、これまで特権者だけに向けられていた仏教による救済を、一般の民衆に開放したことで、鎌倉仏教の魁となったのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る