流罪も好機と考えて
知恩院本堂・御影堂(国宝)(写真・PIXTA)
ところが専修念仏が大流行すると、比叡山延暦寺や南都仏教の僧侶から非難が湧き起こりました。理由は、法然が阿弥陀如来以外の諸仏を謗り、戒行を否定し、酒肉妻帯してもよい。ただ念仏すれば往生できると説いていることが、これまでの仏法を否定していると非難されたのです。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の死後、全国の争乱が終息に向かっていた元久元年(1204)、延暦寺の衆徒が法然をはじめとする専修念仏者を追放し、専修念仏の停止を天台座主の真性に訴えました。法然は、この訴えに慎重に対応しました。まだ朝廷で隠然たる力を持っていた九条兼実をとおして、天台宗には異心がないことを伝え、門弟に対しては、七カ条にわたる制誡を課し、一人ひとりに署名させたうえで、それを天台座主に送りました。
そのため延暦寺からの批判の矢は一時止まりましたが、第二の矢が今度は奈良の興福寺によって放たれたのです。これは「興福寺奏状」といわれ、専修念仏の禁止と法然らの処罰を直接、朝廷に訴えて裁断を求めたものです。
「法然は仏法の怨敵なり。その弟子の安楽、住蓮も同罪である。さらに一度でも念仏すれば往生できるという、いかがわしい一念義を説く行空や幸西も処罰すべし」
と指弾しました。しかし朝廷内には法然に味方する人がいました。九条兼実の子で摂政の良経や、日記『三長記』で念仏弾圧の経緯を書いた三条長兼らでした。だが興福寺の追及は執拗でした。
そんな折、後鳥羽上皇が寵愛する二人の女房が、安楽らの草庵で剃髪したことから事態は急変したのです。女房の出家を知った後鳥羽上皇が激怒し、安楽らと、その師となる法然を処罰せよという院宣を下したのです。
承元元年(1207)2月、法然は土佐(高知県)に流罪、安楽と住蓮は斬首され、多くの門弟が流罪に処されました。これが「承元の法難」といわれるものです。このとき越後(新潟県)に流されたのが親鸞でした。
専修念仏の禁止と流罪の報に接した法然は、少しも騒がずに、普段のように門弟に向かって念仏の確かさを説きました。弟子の中には法然の身を案じて、それを押しとどめようとしました。法然は、その弟子に向かって、
「たとえ我が身が死刑になっても、この専修念仏の教えだけは説かずにはいられない」
と語ったといいます。そして、流罪を契機に念仏の恩恵に浴していない地方の人々に伝える好機と考えて、その志をくつがえそうとはしませんでした。
法然は75歳の高齢をおして流罪地に赴きましたが、10カ月後に許されています。しかし京都に入ることは認められず、摂津(大阪府)箕面の勝尾寺で4年いたのちに、ようやく帰洛が許されて東山の吉水に戻ることができました。しかし建暦元年(1212)正月、所労と老衰のために80歳で亡くなったのです。
現在、京都では知恩院をはじめ、門弟や法系がつくった百万遍知恩寺や金戒光明寺、法然院、嵯峨の二尊院、西山の光明寺などで法然の教えを伝えています。
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