2024年に発行される新一万円札の肖像画に、
「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一が採用されることが発表されました。
江戸時代から明治時代へと移行する社会の大転換期に、
高邁な理念と行動力で数々の偉業を成し遂げた渋沢栄一。
その91年の生涯を、歴史作家の河合敦さんが紹介します。
日米親善に尽くした偉大な実業家
渋沢栄一 1840年(天保11年)~1931年(昭和6年)
渋沢氏は武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)に根付いた一族で、栄一の生家(中ノ家)はその本家筋にあたり、領主から苗字帯刀を許されていました。父の市郎右衛門は蚕や藍玉の製造・販売、金融業など多角的な経営によって財を成した人物でした。
幕末期、栄一は尊王攘夷運動にのめり込み、高崎城襲撃計画を立てますが、決行直前で思いとどまって西国へ逃亡。その後、縁あって一橋慶喜(のちの第十五代将軍)の家臣(御用談所下役)に取り立てられました。
渋沢栄一生地(埼玉県深谷市)
栄一は父の理財の才を受け継いだようで、一橋家に財政策を提言するなど、その能力の高さが注目されるようになります。そして、同家の勘定組頭に抜擢され、さらに慶応3年(1867年)、慶喜の弟・徳川昭武がパリ万博へ赴く際、経理係として同行することになりました。万博終了後、留学する昭武の後見役としてフランスに留まり、西欧の進んだ制度を積極的に学びました。
鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた徳川慶喜は、慶応4年(1868年)4月、江戸城を無血で開城します。このため昭武にも帰国命令が出され、栄一は約2年ぶりに日本の土を踏むことになります。徳川家は静岡七十万石の大名に縮小されますが、栄一も妻子を伴い、旧主・慶喜のいる静岡へ移住しました。
新政府は新紙幣「太政官札」を普及させるため、強制的に諸藩に紙幣を貸付けて利子を取る政策を進めます。静岡藩でも五十万両以上を押しつけられました。栄一はこの借財を返済するため、フランスで学んだ合本会社(今の株式会社に近い)を創設しようと考え、地元の商人に呼びかけ「商法会所」を設立、自身が頭取になりました。そして、太政官札で穀物や肥料の買い入れ、領民への融資を行なって大きな利益を上げたのです。