仏弟子は、
いつもよく覚醒していて、
昼も夜もつねに仏を念じている。
「ダンマパダ」(296)
仏を念ずる。それはお釈迦さまとはどういう方かと具体的に確認することをいいます。お釈迦さまを具体的に念じていくと、人生のアドバイスが得られたり、励みになってみずからを高めることができます。
上座仏教の国では、お釈迦さまの像に向かって礼拝します。お釈迦さまは、わたしたちの偉大なる指導者、師匠であり、慈愛をたたえた母親のような存在なのです。お釈迦さまは雲の上の人ではありません。人間として生まれて人格を完成された人なのです。どんなことで悩みがあっても、お釈迦さまはみごとに答えをだしておられるのです。だから、わたしたちはお釈迦さまという人格を尊敬し、生き方を学び、教えを実践するために礼拝しているのです。お釈迦さまが歩んだ道は、わたしたちの模範になるのです。
お釈迦さまのことを「如来」といいます。如来の徳の一つは、かならずみずから実践したことを人びとに語っていることです。みずから実践していないことを語ることはないのです。お釈迦さまを模範とするのであれば、わたしたちも他人に言うばかりではなくて、みずから実践しなくてはなりません。自分の子どもにたいしても、だれにたいしてもそうです。
生きるということは、たいへん苦しいことです。逆境に遭うと、悲しみにおちいってしまうこともあるでしょう。でも、お釈迦さまのことを念ずると、自分に負けてはいけないという気持ちになります。
お釈迦さまは6年ものあいだ大変な苦行をされました。それは、どんな逆風に遭っても、それを乗り越えるのだ、負け犬になってはいけないのだ、というメッセージでもあります。だから、お釈迦さまのことを念ずると、心が明るくなり、落ち着いてきます。困難があっても、それを乗り越えていこうという気持ちになります。
また、わたしたちは欲をだして失敗します。だからお釈迦さまを念じるのです。すると欲から離れようという気持ちがわいてきます。
お釈迦さまにたいして、いろいろな王様が寄進を申しでたり、人びとはさまざまな布施をしました。しかし、お釈迦さまはそれにしがみついて、欲にかられることはありませんでした。病気になっても、すべては移ろいゆくものだと、淡々としていました。
このようにお釈迦さまの人生そのものが、この世に誕生したときから死ぬときまで、ずっと模範になるのです。
お釈迦さまを念じていると、けっして悩んだり、途方に暮れたりすることはありません。熟睡してさわやかに目覚めたときのような、あの爽快な気持ちで一生涯を生きることができるのです。
バックナンバー「 原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話」