原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話

わたしたちは依存症にかかっている

アルボムッレ・スマナサーラ
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夢中になって、人は花ばかりを摘む。
欲に満足することなく、死に征服される。

                   「ダンマパダ」(48)

わたしたちは、みななにかの「依存症」にかかっています。今、依存症でなくても、つぎの瞬間に依存症にかかることもあります。いわば依存症のキャリア(保菌者)なのです。依存するものは、酒、金儲け、仕事、賭け事、おしゃべり、テレビなど、かぎりなくあります。酒や賭け事に依存するのはよくない、ということはだれにでもわかっています。けれども、わたしたちはグルメやブランド、健康食品といったものに依存して生活しているかもしれません。インターネットに依存し、つぎからつぎへと調べたりして、何時間も費やしもします。

依存すると、本来なすべきことをあとまわしにしてしまいます「今、なにをするべきか」がわからなくなるのです。普通の人なら、朝起きたら顔を洗って食事をします。しかし、アルコール依存症の人は、朝起きるとすぐに酒に手がいきます。賭け事に依存している人は、子どもの学費でさえも賭け事に使ってしまいます。家を売ってでも、賭け事をする人もいます。炎天下の車中に子どもを放置したままパチンコに熱中して、子どもを死なせてしまった親がいました。なんと愚かなことでしょうか。

なにに依存するかが問題なのではありません。依存すること自体がよくないのです。たしかに仏教を学ぶことや、ボランティア活動に励むことはいいことです。しかし、それに依存すれば、やはり自分を見失っていくのです。わたしのところに学びに来る人のなかで、よく「命がけで仏教を学びます。仏教に命をかけます」という人がいます。けれども、そういう人で修行が進んだ人はいません。「命がけ」とか「必死でやります」という人は、そのことにしがみついているわけです。「仏教に依存している」といえましょう。ものごとは真剣すぎるのもよくないし、いい加減でもよくない。だから、中道が大切なのです。

さあ、修行者たちよ。お前たちに告げよう。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。
怠ることなく(不放逸にして)修行を完成しなさい。

                   「大パリニッバーナ経」

これはお釈迦さまの最期のことばです。「不放逸であれ」とお釈迦さまは説かれています。不放逸とは、パーリ語では「アッパマーダ」といいます。「そのときそのときに、なにをするか、わかっている」ことです。この瞬間にどうするべきか、つぎの瞬間はどうすべきか、そのときに気づいていることです。反対に「パマーダ」とは、「放逸に耽ること」「溺れること」「過度に依存すること」を意味します。「心が酔っていて、自分がなにをしているのかわからない状態」をいいます。

今、なにをやるべきかをよくわかっていて、それをきちんとやること──それが、不放逸です。不放逸であることで心は育っていくのです。

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