自分こそ自分の救済者である。
他人がどうして自分の救済者であろうか。
自己をよくととのえることで、
得難い救済を得る。
「ダンマパダ」(160)
そもそもお釈迦さまの教えには、だれかに救ってもらおうとする他力的なものはありません。だからといって、お釈迦さまは他の宗教とも対立しませんし、基本的に相手の考えを否定することもなさいませんでした。でもたった一つだけ、お釈迦さまが真っ向から否定している教えがありました。それは六師外道と呼ばれた一群のなかの一人、マッカリ・ゴーサーラの教えです。
マッカリ・ゴーサーラは「すべては宿命だ」と説きました。一つの原因ですべてが決められている。ものごとは全部定められているから、なにもする必要はない。巻いた毛糸をほぐせば、ほぐれながら糸玉は小さくなり、ついには一本の糸となってなくなる。そのように人間は何劫くらいで王になる、何劫くらいで奴隷になる、何劫くらいで修行者になる、と定められている。すべては決まっていて、輪廻転生を繰り返して終わっていく、という教えなのです。つまり、人間の意志や努力というものを否定しているのです。
この教えについて、お釈迦さまはつぎのように述べられています。
小さな小川があって、そこで網をかける。小魚であろうが大きな魚であろうが、ヘビであろうがカエルであろうが、みんな網にかかってしまう。網にかかればみんな死んでしまう。そのように、かれの教えは人びとの努力を否定して、みんなを悪い方向へもっていってしまう──。
マッカリ・ゴーサーラの教えと同じように、他力的な考えには人間の意志や努力を否定してしまうところがあります。ですから、お釈迦さまの教えとは違うのです。お釈迦さまは「自分以外のものに頼ってはいけない」と説かれました。「スッタニパータ」という最古の経典には、「わたしは救済者ではない。指導者である」ということばがあります。
ある行者が「どんなに苦行をしてもたくさんの苦しみがあります。どうか、わたしを救ってください」とお願いすると、お釈迦さまは「わたしはだれも救うことはしません。あなたが自分で真理を発見してみなさい」と言われました。
「わたしは道を説くけれども、それを実践するのは、あなた方一人ひとりの自由意志です。みずから実践して、そして体験としてつかめばよい」
これがお釈迦さまの基本的な姿勢です。つねにみずからを拠り所とするのが、仏教の教えの根本なのです。
バックナンバー「 原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話」