暮らしの中から見えてくる風景や心象を表現し続ける、エッセイストの広瀬裕子さん。
2017年冬に、鎌倉から香川へ移住。
現在、設計事務所のディレクションに携わり、場づくり、まちづくりにも関わっています。
住む場所を変えて、見えてきたもの、感じた思いを綴ります。
育った家の庭は、四季折々の草花が咲いていました。
いま時分は果実も生り、暑い季節にその実をおいしくいただけるよう、母といっしょに手を動かしていたことをおぼえています。そして、時間が流れ、わたしも草花を育てるようになりました。
「草花を育てるように」と書きましたが、実際は育っていく様をこちらが見せてもらっていると感じています。あまり手をかけずとも季節になると植物は芽ぶき、蕾をつけ、花を咲かせます。気づいていないだけで、花をつける準備は自ら着々となされ、その一連の流れを、季節ごとに見させてもらっているのです。
あるときから、植物にふれると、なんとも言えないやわらかさを指先に感じるようになりました。それ以前は、その感覚に気づいていませんでした。何が変わったのだろう──。
思い当たったのは、わたしの手の使い方でした。
植物にふれるとき、できるだけやわらかな指先でふれるようにしています。やわらかく。流れるように。細やかに。きっかけは、やわらかくふれたほうが、草花の変化を感じとれることに気づいたからです。たとえば、花を摘むとき、葉をとり除くとき。
花を摘むとき、やわらかな手で摘むと、花はやわらかな空気を纏いはじめるように感じます。室内にいれ飾っても、その空気はつづきます。色が変わった葉や、茂りすぎた葉も、指先でふれるとすっと枝から離れ、とり除いたほうがいいのか、残したほうがいいのか、植物から伝えられている気がするほどです。
そして、何より、そうするほうが、わたし自身とても気持ちいいのです。やわらかくふれると、そのやわらかさかがそのまま返ってくる。そんな感じでしょうか。
草花を見ていると「育てている」「育ててもらっている」というどちらか一方だけの方向ではないことがわかってきます。「いま、ここに、いっしょに存在している」という感覚です。目の前にある草花は、自分とは別の存在なのですが、ふれているとわたし自身にも思えてくるのです。
それは、まるで、カガミのように。草花にやわらかくふれるのは、わたしがわたしにやわらかくふれることと同じなのです。
草花に接するのは、大抵、朝、目がさめてすぐの時間です。いまは空が明るくなるのも早く、日の出とともに植物は、青々とした香りと清々しい生命力を放ちます。もうすぐ夏至。この季節はとくに、花も、草も、ひとも、のびやかになるころです。
(月1回連載)
東京都生まれ。エッセイスト/設計事務所ディレクター/縁側の編集室共宰。「衣食住」を中心に、こころとからだ、日々の時間を大切に思い、表現している。
2017年冬、香川県へ移住。おもな著書に『50歳からはじまるあたらしい暮らし』『整える、こと』(PHP研究所)、『手にするものしないもの 残すもの残さないもの』(オレンジページ)など多数。7月に新刊『YES』(PHP研究所)が発売予定。